■群雄割拠 蘆名家リプレイ
 
 大名:C 戦力:F 配下:E 地利:D 難易度:上級
 
●戦力
・石高10 兵力20 所持金1900
 
 シナリオ1に数多存在する弱小勢力の中でも取り分け悪い数値だが、序盤の戦略で挽回出来るので難易度は程良い。
 
●武将
・蘆名盛氏  軍事10 政治16 魅力14 士気18 忠義 ─
・金上盛備  軍事12 政治13 魅力10 士気14 忠義23
・猪苗代盛国 軍事 4 政治11 魅力12 士気 4 忠義 7
 
 最重要能力の政治が優秀で、小勢力としては及第点。ただし、猪苗代盛国の裏切り易さを踏まえ、早期に新たな配下を獲得したい。
 
●外交
 隣接する相馬家・宇都宮家広綱・上杉家に加えて北条家・武田家とも同盟を結んでおり、何もしなければ当面は滅亡の心配が無い。
 
 
■1555年 春
 
 正攻法では周囲を同盟国に囲まれた利点を活かして伊達家を攻めるが、その後の奥州地方に地盤を築く作業が非常に面倒なので、簡単迅速安定な上杉家への降伏を選択。
 
蘆名盛氏「わしが使者となれば上杉謙信も信用するだろう」
上杉謙信「家の盛衰は戦国の習い。決して悪いようにはせぬ」

 
・宇都宮家長房が滅亡しました。
・富樫家が滅亡しました。
・織田家信広が滅亡しました。
 
■1555年 夏
 
 謀反により拠城の黒川城(南陸奥)と共に新発田城(越後)を横取りし、石高は倍の20万石に。上杉家とは敵対関係になるも、自然と休戦が成立するので怖くはない。ここで再び選択肢が複数あり、伊達家や大崎家を地道に倒すか、相馬家か宇都宮家を攻めて常陸国を狙うか、関東地方での戦いに忙しい上杉家の隙を付くか、どれも一長一短で悩ましい。結論は、乏しい兵力に被害を出してまで野戦を決行する必要性に迫られていない為、空っぽの越後国を少数で攻撃することに。他に、佐竹家へ同盟を申し込んでおく。
 
蘆名盛氏「わし自らが同盟の使者を勤めよう」
佐竹義昭「軍勢をおして参られよ。この義昭いつでもお相手いたす!」

 
・沼田家が滅亡しました。
・千葉家が滅亡しました。
・菱刈家が滅亡しました。
 
■1555年 秋〜冬
 
 上杉家が新発田城を取り囲む軍勢に反撃を用意しており、大人しく黒川城に撤退。代わって矛先を向けるのは、黒川城の動きに連動して手薄となった伊達家の米沢城(出羽)で、伊達実元の束ねる兵6を全軍で打ち破って包囲を完了したが、レベルは24もあるので落城はまだ先の話。この辺りの展開は、軍備・政略フェイズの順番が上杉家と伊達家よりも後になった幸運による。そして、冬になると奥州地方にお約束通り大雪が降り、誰もいない黒川城は年明けまで安泰。
 
・扇谷上杉家が滅亡しました。
・長野家が滅亡しました
・水野家が滅亡しました。
・宇喜多家が滅亡しました。
 
■1556年 春〜夏
 
 上杉家より連続して降伏勧告があるも無視。米沢城の防壁は4度目の兵糧攻めで音を上げて、降伏してきた伊達実元(軍6政8魅10)を配下に加える。これで猪苗代盛国がいつ寝返っても大丈夫だ。しかし、近辺勢力の動向に悪い知らせもあり、関東地方と奥州地方を隔てる防波堤の相馬家が佐竹家の侵攻を受けた。
 
・小山家が滅亡しました。
・足利家晴氏が滅亡しました。
・外様大名の山内上杉家が滅亡しました。
・神保家が滅亡しました。
・河野家通存が滅亡しました。
 
■1556年 秋
 
 石高は28万石。米沢城は隣接する最上家・伊達家共に「城レベル>兵数」で全軍引き上げても問題無いが、宇都宮家広綱や相馬家滅亡後の佐竹家を刺激しては難儀なので、その場に留まる。兵力を増強しつつ、伊達実元を重臣に抜擢。
 
・相良家が滅亡しました。
・丹羽長秀が織田家信長の家督を相続します。
・安芸家が滅亡しました。
・遠山家が滅亡しました。
 
■1556年 冬
 
 虫の息となった相馬家に降伏を乞われるが、佐竹家の兵力40から助けられる戦力は所持しておらず、見捨てる。米沢城のレベルを10に普請し、同程度の規模に成長した宇都宮家広綱と同盟。
 
宇都宮広綱「この度の同盟の儀、真に祝着至極に存ずる」
 
・相馬家が滅亡しました。
・三村家が滅亡しました。
 
■1557年 春〜夏
 
 佐竹家は一揆の被害を受けないまま石高71万石・兵力103まで大きくなり、現状では半分にも満たない規模の蘆名家が真正面から抗するのは困難。そこで黒川城に全軍を集結させ、二本松城(南陸奥)に誘導した佐竹家の主力が北陸奥国へ足を踏み入れるように促した。誘いにまんまと乗ってくれると良いが、こちらに攻められる危険も高い諸刃の剣か。
 
・肝付家が滅亡しました。
・長宗我部家が滅亡しました。
・小田家が滅亡しました。
・外様大名の椎名家が滅亡しました。
・海北綱親が浅井家の家督を相続します。
 
■1557年 秋
 
 奥州地方に豊作、佐竹家は武将3・兵力46で伊達家の白石城(北陸奥)に侵攻と、朗報が続けて舞い込む。関東地方は以下の現状で、釣り合いが取れていてありがたい。
 
・佐竹家 石高72 兵力 85
・里見家 石高41 兵力 41
・北条家 石高71 兵力 85
・武田家 石高77 兵力143
・上杉家 石高87 兵力143
 
 二本松城に全軍で攻め入り、数で圧倒的有利となった野戦では前線に宛がえた猪苗代盛国が見事に討ち死にを果たす。思惑通り、裏切られる前に使い潰せた。
 
・宇都宮家広綱が滅亡しました。
 
■1557年 冬
 
 南陸奥国の黒川城に百姓一揆が発生したのを受け、初のリロード。予防策は皆無同然、起こると一発で致命傷では是非も無し。
 同盟国だった宇都宮家広綱の滅亡により北条家と領地を接するが、このターンは大雪でやり過ごせた。しかし、関東地方に残存する佐竹家の軍団との関係で休戦には期待出来ず、戦うにしろ戦わないにしろ対応しなければ。
 
・伊達家が滅亡しました。
・足利家義輝が滅亡しました。
・阿蘇家惟豊が滅亡しました。
・蘆田家が滅亡しました。
 
■1558年 春
 
 落城間際となった二本松城だが、伊達家を滅亡させた佐竹家の主力から米沢城を守る必要が出て、一旦放棄することに。作戦フェイズで米沢城から白石城への侵攻を指定しておけば、先に回ってくれば先攻めによって足止め、後に回ってくれば空城を包囲、敵勢に動きがなければ退却と、どんな状況になっても損はしない。宇都宮城(下野)の北条家は黒川城の堅さで持ちこたえられるので対応しなかったが、結局はどこからも攻められずに済んだ。
 
・田原親宏が宇都宮家豊綱の家督を相続します。
 
■1558年 夏
 
 北条家・佐竹家よりも順番が後となり、大した兵力を準備されなかった二本松城に加えて、太田城(常陸)への進出でお留守になった宇都宮城も見逃さず侵攻しておく。これの狙いは城レベルの低下ではなく、次のターンに宇都宮城への移動を封じることで黒川城を必ず守れる点にある。もちろん、米沢城の守備は維持。
 
・外様大名の丹羽家が滅亡しました。
 
■1558年 秋
 
 二本松城を獲得して南陸奥国を平定、37万石の中堅勢力となった。更に常陸国を北条家に奪われて石高が大幅に減少した佐竹家だが、白石城の兵力は未だ49と油断も出来なければ勝負も挑みにくく、さっさと大崎家か最上家に手を出してもらいたい。北条家は上杉家・武田家・里見家と争っており、蘆名家としては肥沃な常陸国を取れる目処が立ったと判断、ここで米沢城から二本松城に主力を移動させて関東進出を狙う。常陸国の支配が叶うのであれば微々たる石高の米沢城など、佐竹家に捧げてやっても構わない。しかし、地力に勝る北条家は太田城に同等の兵力を配置し、ついでに宇都宮城からも退却を余儀無くされた。
 
・土持家が滅亡しました。
・一色家が滅亡しました。
 
■1558年 冬
 
 大雪の中、佐竹家が大崎家を囲んでいる。
 
・伊東家が滅亡しました
・外様大名の海北家が滅亡しました。
 
■1559年 春〜夏
 
 思いもよらぬ北条家の元気さに面食らい、方針転換して空城の白石城を包囲。この侵攻によって空白となった二本松城を攻められるが、レベル10まで普請していたので無事に耐えられ、次ターンの反撃により遠山綱景を討ち取った。時同じくして白石城を我が物とし、また何処からか畠山義継(軍10政2魅7)が寝返ってくる。こやつも猪苗代盛国のごとく忠義心の薄い人物であり、使い捨てよう。
 
・延暦寺家が滅亡しました。
・外様大名の佐野家が滅亡しました。
・北畠家が滅亡しました。
・大崎家が滅亡しました。
・筑紫家が滅亡しました。
・浦上家が滅亡しました。
 
■1559年 秋〜冬
 
 関東地方の領地を全て失って瀕死の佐竹家。このまま好敵手を滅ぼしてしまうのも忍びなく、宥和的に降伏を勧告する。
 
佐竹義昭「蘆名ごときの下風に立つ佐竹義昭ではないわ!」
 
 交渉決裂。佐竹家に残された最後の砦の仙台城(北陸奥)を秋に攻め、冬に落とす。降伏してきた臼井久胤は配下に。
 
・七里頼周が本願寺家の家督を相続します。
・波多野晴通が享年39、波多野宗高が家督を相続します。
・阿蘇家惟前が滅亡しました。
・佐竹家が滅亡しました。
 
■1560年 春
 
 開始から5年経過した蘆名家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高54 兵力87 所持金15815
 
 石高と兵力の割合は丁度良く、実質の最北端に位置しているので他家との数的不利にも不安は無い。ここまで小規模の戦闘のみで済んでおり、資金が十二分に溜まっている。
 
●武将
・蘆名盛氏 知行28 兵数40 忠義 ─
・金上盛備 知行21 兵数36 忠義25
・伊達実元 知行 1 兵数 3 忠義25
・畠山義継 知行 3 兵数 7 忠義16
・臼井久胤 知行 0 兵数 1 忠義17
 
 関東地方で膨大な石高を手に入れられたとしても、この貧相な面子では分配を躊躇してしまう。北条家との決戦に乗じて優秀な配下を得たい。
 
●関東・甲信・東海地方
・里見家 石高 68 兵力 60 敵対:北条
・北条家 石高138 兵力165 敵対:里見 上杉
・今川家 石高127 兵力227 敵対:上杉 斎藤
・上杉家 石高110 兵力187 敵対:今川 北条
 
 北条家と今川家が同盟。今川家は上杉家との開戦が早かったのか、西への進軍が尾張国の入り口で止まっている。武田家は石高35まで落ちぶれた。外交関係と地利で最も有利な北条家だが、我々が介入すれば変わってくるだろう。
 
●北陸・近畿・四国地方
・朝倉家  石高126 兵力179 敵対:七里 波多野 斎藤
・細川家  石高 53 兵力 80 敵対:松永
・松永家  石高 89 兵力124 敵対:細川
・波多野家 石高 51 兵力 89 敵対:朝倉
 
 細川家と波多野家が同盟。今川家に蹂躙されず、未だ群雄割拠だ。有数の巨大勢力と化した朝倉家は美濃国まで南下を果たしたものの、北陸地方で七里家と畠山家義綱に阻まれて加賀国で足止めを食らっているのが、らしいと言えばらしい。
 
●中国・九州地方
・赤松家  石高 61 兵力 91 敵対:陶
・陶家   石高 98 兵力134 敵対:赤松 毛利 大友
・大友家  石高106 兵力173 敵対:陶
・島津家  石高 43 兵力 87 敵対:大友
 
 中国地方の大半を支配した陶家と、南九州の大半を支配した島津家に挟まれ、大友家の今後は苦しい。毛利家は細々と生存中。
 
 
 蘆名軍は太田城に待ち構える北条家の武将3・兵26を打ち倒し、落城に成功。遂に最重要拠点を押さえた。
 
・織田家信行が滅亡しました。
 
■1560年 夏
 
 太田城に隣接する北条家の古河城(下総)を、里見家の武将3・兵力34が包囲中。これは里見家が保有する全軍団であり、太田城から南西に連なる5つの城は全て里見領である。ここから導き出される結論は、この機会に古河城の里見家を絶対に滅亡させるべき。退却されないように調整した兵力で出陣し、大将部隊を最後に倒すことで全滅を成立させた。先に里見家へ回った合戦フェイズの順番により強制討ち死にが回避され、里見義弘(軍15政10魅16)と正木時忠(軍10政8魅12)が配下に加わったのも大きい。この間隙を縫った北条家に宇都宮城から黒川城への進軍こそ許したが、宇都宮城には余剰兵力で先攻めと退路遮断の併用を仕掛けており、抜かりはない。むしろ、攻めてもらって喜ばしい。
 
・里見家が滅亡しました。
・一条家が滅亡しました。
 
■1560年 秋
 
 里見家の滅亡は蘆名家に多大な利益をもたらす。基本的に東側を優先とする領地配分の決まりにより常陸国・上総国・下総国が完全に支配下となり、石高は148万石に達した。朝廷より左京大夫の官位まで授かり、名実共々強豪勢力への仲間入りだ。
 黒川城に孤立させた敵勢には北条氏康が含まれており、このターンに戦死した。
 
・河野家海岸が滅亡しました。
・北条綱成が北条家の家督を相続します。
 
■1560年 冬
 
 大金を蓄えているにも拘らず民草に還元しない領主への不満が吹き出したのか、自領で百姓一揆が続発。やり直してもやり直してもまた起きるのは、どこの統治度も40以下なら当然か。折良く、今川家と刃を交え始めた北条家とは図らずも休戦状態になっており、このまま放置すればリロードの時間が莫迦にならない為、しばらくの月日を支配国のご機嫌取りに費やしても悪くない。
 
蘆名盛氏「率先垂範じゃ」
 
・秋月家が滅亡しました。
・有馬義貞が龍造寺家の家督を相続します。
・木曽家が滅亡しました。
・稲葉一鉄が武田家の家督を相続します。
 
■1561年 春〜冬
 
 各地で楽市楽座を行い、統治度が50を上回るように努める。未支配で内政不可能な出羽国や北陸奥国は、軍団を配置して封じておいた。急に跳ね上がった石高に追い付かない兵力の補充も出来て、有意義な1年だった。
 
・朝倉景紀が朝倉家の家督を相続します。
・稲葉家が滅亡しました。
・畠山家義綱が滅亡しました。
・尼子家が滅亡しました。
・三好長慶が享年39、三好義賢が家督を相続します。
・外様大名の高梨家が滅亡しました。
・松浦家が滅亡しました。
・外様大名の山名家が滅亡しました。
・香川信景が赤松家の家督を相続します。
 
■1562年 春〜秋
 
 統治度は南陸奥国と常陸国で目標達成、上総国と下総国も残り少しとなった今春。蘆名盛氏以外の手持ち無沙汰な軍団を奥州平定軍とし、葛西家と最上家の同時攻略に乗り出した。
 
・鈴木家が滅亡しました。
・香川家が滅亡しました。
・堀江家が滅亡しました。
・柿崎景家が上杉家の家督を相続します。
・斎藤家が滅亡しました。
 
■1562年 冬
 
 栄枯盛衰は戦国の道理。朝倉家は内部から崩壊して越前国に26万石を残すばかりとなり、戦死した上杉謙信の跡を継いだ柿崎家はたまらず北条家に降った。朝倉家を食い物にした七里家が129万石まで膨らみ、異様にしぶとい毛利家は49万石に回復している。
 手強い敵を心強い味方とした北条家は、蘆名家との国境付近に合計150弱の兵力を動員し、長期間に渡って維持されてきた休戦は崩壊。とは言え恐るに足らず、石高153・兵力145まで戦力を充実させた蘆名家は、石高212・兵力195の北条家にも互角に挑める。ただ、季節の巡りが不運だった。大雪に移動を阻まれた奥州平定軍から兵力を調達することならず、関東地方に唯一留まっていた蘆名盛氏にも攻撃を跳ね返す力は無く、古河城(下総)と国府台城(下総)を兵糧攻めされ、前者が陥落。
 
・有馬家が滅亡しました。
・葛西家が滅亡しました。
 
■1563年 春
 
 雪解けを迎え、主力集結の蘆名軍で国府台城を包囲中の北条軍を全滅させ、大名の北条綱成を討ち取ったまでは良かったが、城レベルを犠牲にして敵勢力の武将数を減らしてゆく定跡通りの流れにほくそ笑む内、その存在を忘れていた南部家に寺池城(北陸奥)を奪われてしまった。油断大敵だ。
 
・朝倉家が滅亡しました。
・最上家が滅亡しました。
・北条氏尭が北条家の家督を相続します。
・島津家が滅亡しました。
 
■1563年 夏
 
 最上家の滅亡により氏家定直(軍10政7魅14)と白鳥長久(軍1政14魅12)が、仕官により延沢満延(軍13政10魅8)が加入し、頭数は揃った。また、北条家と今川家の同盟が解消されたらしく、先に順番を終わらせた北条家は東側に軍団を配置させる余裕が無いようだ。この隙に奥州地方の統一を目指し、小野寺家と南部家を攻め立てる。
 
・外様大名の徳川家が滅亡しました。
・南部信愛が南部家の家督を相続します。
 
■1563年 秋〜冬
 
 蘆名家は我関せずだが、全国で降伏と謀反が多発。毛利家が大友家に自ら降伏、柿崎家が北条家から謀反を起こして今川家に降伏、籾井教業が波多野家から謀反を起こして陶家に降伏、遊佐家が細川家から謀反を起こして波多野家に降伏した。果たして誰の決断が正答となるのか。
 
・小野寺家が滅亡しました。
 
■1564年 春〜冬
 
 知行を与えず、忠義が1まで低下していた正木時忠。この年の春に安東家に寝返るも、安東家が滅亡に至った冬には高野山追放の処分が下る。離反を唆した張本人が言うのもおかしいが、実に気の毒な奴である。他に書くことと言えば、初めて直接的に飢饉の被害を受けたくらいで、甲信以西で繰り広げられる大激戦を後目に奥州地方で丸々1年間を平坦に過ごした。
 
・三刀屋久祐が波多野家の家督を相続します。
・三好家が滅亡しました。
・南部家が滅亡しました。
・安東家が滅亡しました。
 
■1565年 春
 
 開始から10年経過した蘆名家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高189 兵力270 所持金27529
 
 奥州地方の諸大名を残らず征伐した蘆名家は、出羽国・北陸奥国・南陸奥国・常陸国・上総国の統一を達成。今後は西に向かって戦を重ねるのみだ。
 
●武将
・蘆名盛氏 知行47 兵数40 忠義 ─
 延沢満延 知行21 兵数29 忠義 4
 氏家定直 知行21 兵数39 忠義20
・金上盛備 知行27 兵数40 忠義25
 臼井久胤 知行 0 兵数 1 忠義12
・伊達実元 知行24 兵数40 忠義25
 白鳥長久 知行21 兵数40 忠義25
・畠山義継 知行 3 兵数 1 忠義14
・里見義弘 知行24 兵数40 忠義25
 
 蘆名盛氏の人徳と配下の忠誠心が高く、褒美を与えずして組織の結束は揺るぎ無い。ただ、冷遇した畠山義継と厚遇した延沢満延の忠義が思惑とは正反対なので、畠山義継は知行を若干増やして動向を見守り、延沢満延は死んで頂こう。
 
●大名家
・北条家   石高207 兵力115 敵対:今川
・七里家   石高173 兵力132 敵対:今川
・今川家   石高278 兵力258 敵対:北条 七里 松永
・三刀屋家  石高 31 兵力 43 敵対:陶
・細川家   石高 52 兵力 40 敵対:松永
・畠山家高政 石高 29 兵力 37 敵対:陶 松永
・松永家   石高121 兵力133 敵対:今川 畠山 細川 大友
・陶家    石高 74 兵力138 敵対:三刀屋 大友
・大友家   石高573 兵力481 敵対:松永 陶
 
 淘汰されず独立を守った勢力の中では、5年前の予想を覆して大友家が一人勝ちの様相である。三刀屋家が細川家と松永家と同盟。陶家が松永家と同盟。北条家は蘆名家と今川家以外の勢力と友好。畠山家高政は敢闘賞ものではなかろうか。
 
■1565年 夏
 
 瀕死の細川家と落ち目の陶家が同盟。どうやら対大友包囲網が築かれつつあるようだ、とは到底思えないが少しでも大友家の東進を邪魔してくれれば助かる。
 統治度がやや低い出羽国に金上盛備を残し、他の全軍団を北条家に差し向ける。越後国経由では大雪に巻き込まれる為、進路は下総国経由。北条家は蘆名家の動きを敏感に察知したが、江戸城(武蔵国)で武将4・兵力89の余計な犠牲を出しただけだった。
 
■1565年 秋〜冬
 
 畿内に上陸していた大友家従属の毛利家が反旗を翻し、和泉国と大和国の半分を横奪した。石高74・兵力73は侮れない存在であり、対大友包囲網が着々と強化されてゆく。そんな時流に逆らって大友家に降伏を申し出たのが、先に陶家と共闘を誓ったばかりの細川家である。何と卑劣な真似を。あと、当家に初めての進物が松永家から届けられた。
 玉縄城(相模)及び小田原城(相模)への侵攻と、予め普請した江戸城に少数の兵を配置して北条家の攻撃を誘う陽動作戦と、力攻めで臼井久胤の処分を完了する。
 
■1566年 春
 
 陽動作戦に引っ掛かった北条家は全兵力の武将3・兵力82を動員して蘆名家の江戸城を包囲しており、1560年夏の里見家と同じ状況が出来上がった。目の前にぶら下がる大量の石高を水の泡にせぬよう、侵攻と合戦を注意して行う。
 
・北条家が滅亡しました。
・吉川経安が毛利家の家督を相続します。
 
■1566年 夏〜秋
 
 北条家の遺領のほとんどが組み込まれ、下総国・上野国・下野国・武蔵国の全土を有することとなった。越後国が今川家と折半になったのは残念だが、石高を357万石まで増加させて文句を言うのは贅沢か。人材不足の悩みだけが深刻さを増してゆく。
 石高が過剰な故に攻め急ぐ必要性が無く、新たに獲得した国の統治度の改善を優先とするが、分け与えられたばかりの岩殿城(甲斐)を包囲する今川軍は全滅させておいた。今川氏豊・三浦義就・六角義賢、それに延沢満延が討ち死に。
 
・外様大名の六角家が滅亡しました。
 
■1566年 冬
 
 イベントフェイズでは蘆名盛興(軍10政4魅12)が元服を果たし、蘆名家の悩みを緩和させる。軍備・政略フェイズでは18万石の吉川家と30万石の畠山家が降伏し、147万石の七里家を屈服させた今川家が所有石高を613万石まで膨らませ、729万石の大友家に負けず劣らずの巨大勢力に化けた。作戦フェイズでは、約1年続いた兵糧攻めによって小田原城を落とした蘆名家の軍勢を牽制したかったのか、兵力52と中途半端な護衛を携えて韮山城(相模)に現れた今川義元が、当然のごとく返り討ちを食らい天に召された。
 
・外様大名の畠山家高政が滅亡しました。
・本多忠勝が今川家の家督を相続します。
 
■1567年 春〜夏
 
 遠藤基信(軍3政14魅11)の仕官に加え、落城させた韮山城から真田信綱(軍17政7魅1)と生駒親正(軍14政5魅10)が降伏を申し出る等、武将数の不安は解消傾向。一方西日本では、大友家による恐怖の大粛正が開始された。
 
・外様大名の遊佐家が滅亡しました。
・三刀屋家が滅亡しました。
・外様大名の麻生家が滅亡しました。
・外様大名の三木家が滅亡しました。
・外様大名の籾井家が滅亡しました。
・陶家が滅亡しました。
・外様大名の吉川家が滅亡しました。
 
■1567年 秋〜冬
 
 蘆名家において突出した軍事力を誇る真田信綱を重臣に抜擢。また奥州探題の叙任記念として、古参配下の知行を加増しておく。
 
真田信綱「蘆名家のために粉骨砕身してご奉公奉る」
 
 今川義元の仇を討とうとしたのか、跡を継いだ本多忠勝自らが深沢城(駿河)に武将2・兵力70を布陣。少数過ぎて相手にもならない、と油断して野戦に挑んだのが過ちだった。敵との間合いを考慮せず安易に前方へ移動した蘆名盛氏と遠藤基信が、本多忠勝にまんまと先制攻撃を仕掛けられて大戦果を浴び、一瞬にして敗北寸前に陥る。すんでのところで救援に駆けつけた金上盛備に何とか助けられたが、相手を侮ることの愚かさが身に染みた。不覚を取らされた本多家には容赦せず、深沢城以外にも小諸城(信濃)・上野城(信濃)・要害山城(甲斐)を攻め、七里家の滅亡や高力清長(軍5政12魅13)と葛山氏元(軍8政14魅4)の服従と言う戦功を挙げた。
 
・柴田勝家が本多家の家督を相続します。
・外様大名の七里家が滅亡しました。
・松永久通が松永家の家督を相続します。
 
■1568年 春〜冬
 
 今川家を継いだ本多家を継いだ柴田家は春の段階で武将5・兵力137まで没落しており、秋には更なる家督相続が起こる。武将3・兵力86となった冬には北陸地方に追い詰められ、もはや虫の息。松永家は春に我が軍門に下るのを望みこれを受け入れたが、松永家が立て籠る多聞山城(大和)の周囲には既に400を越える大友軍が集結しており、夏には滅びていた。助太刀を求めるなら、もっと早く決断すべきだ。敵を失った蘆名家は信濃国から美濃国、駿河国から遠江国へ領地を増やしてゆく。また、葛山氏元は活躍の場が無いまま寿命を迎えた。
 
・松永家が滅亡しました。
・蜂須賀小六が柴田家の家督を相続します。
・外様大名の柿崎家が滅亡しました。
 
■1569年 春〜秋
 
 大友家との戦いに備えて盾役の武将を欲していると、山吉豊守(軍2政11魅10)と小笠原長忠(軍9政5魅5)が仕官した。適材だ。
 
 北陸地方は蘆名家が興味を示さなかった土地であり、逃げ場が越後国まで伸びている為、蜂須賀家は東に順当に撤退を続けたとしても2年間は粘ってくれるであろう。この間を利用して東海地方で小規模の戦いを巻き起こし、大友家との戦力差を埋めてゆく手筈だった。
 しかし、大友家はこちらの目論見を見破っていたのか、蜂須賀家の脅迫に成功。これにより石高1334・兵力924の大友家と、石高546・兵力454の蘆名家の決戦が突如として開始になる。順番に恵まれず一方的に開戦を告げられ、先制攻撃により美濃国・三河国・信濃国・越後国を好き放題に荒らされてしまった。
 
■1569年 冬
 
 奥州・北陸・甲信地方に大雪が降り、双方のほとんどの軍団を行動不能としたのは、嵐の前の静けさか。蘆名家の主力が集う兼山城(美濃)をレベル41まで普請して、年明け後に備える。この城が捨て石として働いてくれるように祈りつつ。
 
■1570年 春
 
 順番で先手を取った大友家は兼山城の蘆名家主力に反応し、稲葉山城(美濃)に約750の大軍勢を結集。更に余剰兵力で栃尾城(越後)と天神山城(越後)に武将1・兵力40、上田城に武将3・兵力105、鳴海城(尾張)に武将2・兵力80を配置したが、こちらの思惑と寸分違わない行動である。蘆名軍は栃尾城の大友軍を無視して兼山城から完全撤退し、散々となった敵軍団に数的有利を確保して各個撃破。多大な戦力差を背負う状況では大将部隊だけを狙って勝利してもすぐに兵力を回復させられる為、野戦で全滅を成立させて敵武将の総数を減らすことが重要となる。このターンでは立花道雪を始めとして、3人の大友家家臣を切腹や降伏させた。
 
・外様大名の田原家が滅亡しました。
 
■1570年 夏〜秋
 
 大友家から降伏を勧告する使者が訪れ、これまでの抵抗空しく蘆名家は屈服する。
 
 
1570年 夏
 
大友宗麟によって天下は統一された。

 
 別バージョンのエンディングを鑑賞した後、過去に戻る。前ターンの順番の関係で取り逃がした大友軍を駆逐し、新たに大友家の武将が4人減少。兼山城は秋に陥落し、役目を全うした。
 
・外様大名の細川家が滅亡しました。
 
■1570年 冬
 
 細川藤孝が自ら裏切ってきたのを受け、兵力40・忠義2の佐伯惟教に寝返りを仕掛けてみた。知行60を奮発し、断る義理は無いはずだが。
 
佐伯惟教「話にならん!」
 
 兼山城を舞台に大名同士の大合戦が勃発。武将8・兵力292で待ち受ける大友宗麟に、全軍団となる武将18・兵力443を動員した蘆名盛氏が躍り掛かった。勝つだけなら造作もないが、前述したように全滅させねば徒労に終わる戦であり、大将部隊を倒さぬように気遣うのはもちろん、初期値が60しかなかった敵の士気の操作も欠かせない。攻撃されて倒れると10低下する士気は、攻撃して倒れた場合は8しか低下しないことは覚えておきたい。事前の仕官と降伏によって盾役の武将を6人も掻き集められていたのも大きく、1名の犠牲者も出さずに目的は果たされた。
 
・百武賢兼が大友家の家督を相続します。
 
■1571年 春〜夏
 
 朝廷より中納言の官位を叙任。百武家は全軍団の武将21・兵力495が鳴海城を包囲中で身動きなく、先の戦闘で負った深手を癒すべく徴兵に専念した。そして夏、なぜか主力部隊から離れていた百武賢兼を楽に叩きのめし、武将5・兵力124を平らげる。次々と挿げ替えられてゆく大名の首に、いつの間にか大友家の面影は消えていた。
 
・成松信勝が百武家の家督を相続します。
 
■1571年 秋〜冬
 
 成松家の武将18・兵力422に対して、蘆名家は武将13・兵力451となり、数多の合戦を経て遂に立場が逆転。成松家から大熊朝秀と隅部親永が蘆名家に身を寄せ、内部崩壊の兆候も見せている。ところでその隅部親永だが、隈部と書くのが正しいのだろうか。
 合戦フェイズとなり、清洲城(尾張)の武将2・兵力80は滞りなく全滅させるが、小牧山城(尾張)の武将7・兵力146への対応に困る。大将部隊の兵力が少な過ぎて全滅を狙えそうになく、かと言って兵力と士気を減少させる潰走は事態の悪化を招く為、得策でない。ここは大人しく退却しておき、1ターンの猶予を与えた。
 
■1572年 春〜秋
 
 春の長島城(伊勢)にて、野戦の全滅により成松信勝の軍団を籠城させる。また、西日本への玄関口である大垣城(美濃)を封鎖し、成松家の武将13・兵力276の移動可能範囲を小牧山城・稲葉山城・兼山城に限定させた。閉じ込められたことに気付いた成松軍が必死の形相で清洲城に攻め込んだところを、退路遮断で殲滅。これにより成松家は大名が唯一の軍団となったが、前述の通り籠城中では何の抵抗も出来ない。
 
・外様大名の蜂須賀家が滅亡しました。
 
■1572年 冬
 
 天下統一を間近に控えた蘆名家。
 
●戦力
・石高582 兵力358 所持金99999
 
 どのシナリオでもクリアに必須の常駐兵力は、この400前後だろう。
 
●武将
・蘆名盛氏 知行175 兵数40 忠義 ─
 蘆名盛興 知行 27 兵数 1 忠義25
 白鳥長久 知行 33 兵数30 忠義24
 山吉豊守 知行  0 兵数 1 忠義14
・金上盛備 知行 40 兵数29 忠義25
 氏家定直 知行 33 兵数11 忠義25
 遠藤基信 知行 33 兵数13 忠義25
 大熊朝秀 知行 12 兵数25 忠義16
 隅部親永 知行  0 兵数 1 忠義19
・伊達実元 知行 36 兵数40 忠義25
 吉岡長増 知行  0 兵数 1 忠義20
 細川昭元 知行  0 兵数 1 忠義20
・畠山義継 知行 30 兵数33 忠義23
 石川通清 知行  0 兵数 1 忠義16
・里見義弘 知行 40 兵数40 忠義25
 高力清長 知行 27 兵数40 忠義25
・真田信綱 知行 33 兵数25 忠義25
 生駒親正 知行 30 兵数 1 忠義23
 細川藤孝 知行 30 兵数25 忠義21
 
 金上盛備を筆頭に、文武両道で忠義に厚い配下が揃った。弱小勢力は無能大名が付いてきて褒美の経費が莫迦にならないものだが、蘆名家は心配無用。伊達実元は能力に劣るものの、初期から苦楽を共にした故に最後まで重用した。意外なのは高値安定した畠山義継の忠義で、猪苗代盛国に姿を重ねたのは先入観だろうか。蘆名盛興と生駒親正は最後の野戦で討ち死にしてもおかしくなかったのに、幸運に恵まれて今を迎えられた。
 ちなみに、盾役の武将が結構生き延びているが、寝返りが厄介なので間引きするか、再編成で高忠義の軍団に纏めて遠方に送り込むべきだろう。
 
 
 長島城を落城させ、日本全土が蘆名家の支配国となった。
 
・成松家が滅亡しました。
 
 
1572年 冬
 
蘆名盛氏は天下人となった。

 
■あとがき
 
 シナリオ1の蘆名家は再現性の高い攻略方法を持つとは言え、一揆の抑止以外でリロードを使わなかったことに喜んでいます。序盤に天災に合わず、中盤に今川家や北条家に手を焼かずで、楽な展開となったのが要因でしょう。間延び気味な終盤は退路遮断による決着を潔しとしなかった為で、意図的に仕掛けていればもっと早く終わっていたかもしれません。
 最後に、ドリームキャストのブラウザは漢字変換能力が非常に弱く、武将名の入力に四苦八苦なことを誤字脱字への言い訳として付け加えさせて下さい。
 
 
 
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