■群雄割拠 尼子家リプレイ
 
 大名:E 戦力:C 配下:D 地利:E 難易度:上級
 
●戦力
・石高24 兵力47 所持金1500
 
 毛利家・陶家と共に中国地方を三つ巴で争奪するには少し力不足だが、本シナリオの平均からは恵まれている。数字には表れないものの、居城の月山富田城と米子城が威風堂々な佇まいで、耐久度が半端じゃないのも魅力。ただ、兵力がほぼ最大値なのに知行が分散されており、現状での野戦は避けたい。
 
●武将
・尼子晴久  軍事 6 政治 6 魅力13 士気16 忠義 ─
・宇山久兼  軍事 8 政治 8 魅力 4 士気 8 忠義15
・立原久綱  軍事 6 政治 7 魅力 8 士気17 忠義21
・米原綱寛  軍事 9 政治 2 魅力12 士気 8 忠義11
・三刀屋久祐 軍事11 政治 3 魅力10 士気12 忠義13
・小笠原長雄 軍事 4 政治 5 魅力 4 士気10 忠義10
・本城常光  軍事12 政治 3 魅力10 士気12 忠義 8
 
 戦国時代に明るい私ではないが、これが本当に正当評価なのか首を傾げる程に、上下左右の数値が全部低い。こんな愚将たちが集まってよく、誰もが知る有名勢力として現代でも人気を得られたものだ。あと、軍事で双頭の三刀屋久祐と本城常光が寝返り予備軍で、早めの処分が吉。
 
●外交
 全周囲が敵だからと言って、無理に仲良ししなくて良い。前述の三つ巴の戦いに堂々と加わって石見国と安芸国を強奪するか、月山富田城を防壁にして近隣に乱立する弱小大名を吸収するか、どちらにしろ序盤に同盟はいらない。友達作りは中国地方の情勢が確定してからで間に合う。
 
 
 プレイ回数の少ない大名な為、リロードを禁止にしつつ、同盟はどうしても必要な戦況になれば可とします。
 
■1555年 春〜夏
 
 戦略は後者で。米子城(出雲)に全軍団を集結させ、津山城(美作)の赤松家を瞬殺し、好都合にも空城の高松城(美作)まで連戦で駆け抜ける。がらんどうの月山富田城(出雲)には陶軍から侵攻を受ける恐れがあったが、安芸国の毛利軍を攻めて包囲即退却したようだ。寝返る配下もおらず、順調な開幕。
 
・宇都宮家長房が滅亡しました。
・赤松家が滅亡しました。
・沼田家が滅亡しました。
・菱刈家が滅亡しました。
 
■1555年 秋
 
 陶家への反応か、毛利家は草津城(安芸)に武将8・兵力46の全軍団を配置し、月山富田城はその威光だけで出雲国を守った。当家は武将7・兵力47で高松城を包囲中で、横取りの心配も無い。
 
・安芸家が滅亡しました。
・千葉家が滅亡しました。
・土持家が滅亡しました。
・水野家が滅亡しました。
・三村家が滅亡しました。
・宇都宮家広綱が滅亡しました。
・神保家が滅亡しました。
・富樫家が滅亡しました。
 
■1555年 冬
 
 別所村治が浦上家より謀反後、宇喜多家に降伏。高松城を落として隣接したばかりの相手だが、既に四国地方へも進出しており、そんなに領地を増やしても逆効果だろう。当家は高松城を耐久度10まで普請し、毛利家への壁を固めると共に美作国を分ける宇喜多家から石高を奪い、更に侵攻も行う。武将4・兵力29との野戦になる予定が、先んじた宇喜多軍が四国地方へ自城を守りに出掛けており、幸いにも空城攻めで即落城となった。
 
・織田家信広が滅亡しました。
・朝倉景紀が朝倉家の家督を相続します。
 
■1556年 春〜1557年 春
 
 美作国を統一し、石高73・兵力102まで成長したので、次の手を探す。毛利家とは睨み合いが続き、宇喜多家は主力による伊予国へ侵略で休戦成立で、無視して構わない。問題なのが山陰地方の山名家で、因幡国の石高15に対して鳥取城(因幡)の耐久力28と、「城レベル>兵力」が壊れかけだ。米子城から鳥取城までは一直線で繋がっており、最前線を押し上げても防御に影響は出ないし、遊軍を用いて後顧の憂いを潰しに行った。
 
・長野家が滅亡しました。
・山内上杉家が滅亡しました。
・河野家通存が滅亡しました。
・外様大名の椎名家が滅亡しました。
・織田家信長が滅亡しました。
・長宗我部家が滅亡しました。
・足利家晴氏が滅亡しました。
 
■1557年 夏
 
 毛利軍が水軍を使って動き、元同盟国の河野家海岸を囲っている。これは均衡を打破する為の同盟破棄ではなく、CPU間の包囲軍の入れ替わりによる偶発的衝突か。いずれにせよ、当家にとっては安芸国の無血占領の好機で、雪崩を打って無人の敵地へ駆け込んだ。また、陶家の小石見城(石見)が城レベル6なのも見逃さない。
 
・佐竹家が滅亡しました。
・河野家海岸が滅亡しました。
・麻生家が滅亡しました。
・織田家信行が滅亡しました。
 
■1557年 秋〜冬
 
 益田藤兼(軍6政6魅8)が仕官。未だに例の2人を抱える当家にとっては、猛将でも知将でもなくても誠実な人でさえあれば、新人さん歓迎。
 
・山名家が滅亡しました。
・小田家が滅亡しました。
・六角家が滅亡しました。
・遠山家が滅亡しました。
・畠山家義綱が滅亡しました。
 
■1558年 春
 
 因幡国の統治者が変わったのを見てか、丹後国の半分を奪われた一色家が降伏してきたので快く出迎え、一色義幸(軍6政4魅8)・一色義道(軍14政4魅13)・沼田勘解由(軍4政6魅2)が加入。特筆すべきは一色義道で、この能力かつこの大名下で忠義25なのは、尼子家内では輝いて見える。尚、沼田勘解由は忠義2だ。
 最前線が意図せず東に伸びたが、新たな隣接大名となる波多野家は武将3・兵力78で現状だと脅威でない。また、毛利家が四国地方の奥深くへ潜っていったので、勝山城(長門)・亀尾城(長門)の陶家に喧嘩を売った。守備兵は両方合わせて武将1・兵力33のみ。晩春までに安芸国の統一と、本城常光の処分に成功。
 
■1558年 夏〜冬
 
 長門国を統一して中国地方を微少な損害で平定した当家は、石高184・兵力233の強豪勢力に躍進。今後の戦略は、対岸の水軍力が旧陶家が60・宇喜多家が37・大友家が35・宇都宮家豊綱が25と確実な突破は財布に厳しいので、余計な出費不要の東に進路を取ろう。手始めに浦上家の上月城(播磨)を囲み、近畿地方進出への足掛かりとした。また、九州地方は旧陶家・毛利家の脅威をほぼ受けていない割に、大友家が石高65・兵力80で領地拡大に手間取っており、両面作戦も試みる。長門国の城を少し頑丈にしておいて放置し、わざと攻めさしてから討ち取る算段だ。
 
・北畠家が滅亡しました。
・秋月家が滅亡しました。
・里見勝政が里見家の家督を相続します。
・弘中隆兼が陶家の家督を相続します。
・延暦寺家が滅亡しました。
・毛利家が滅亡しました。
 
 毛利家は安芸国をお留守にしたのが元凶で、石高4・兵力・8まで没落し、四国地方でしぶとい宇喜多家にとどめを刺された。
 
■1559年 春〜夏
 
 佐世清宗(軍6政2魅10)が仕官。丹後国の東側に武将4・兵力121の朝倉家が進出済で、注意を要すると考えていたら四国地方沿岸の警備を怠って、武将3・兵力61の宇喜多家主力を本州へ再上陸させてしまった。その反面、4年前の謀反から今日まで別所村治が籠っていた姫路城を包囲してやり、痛み分けか。あと、前述の思惑に大友家が引っ掛かり、武将4・兵力31を片付けた。
 
・浦上家が滅亡しました。
・本願寺家が滅亡しました。
・弘中家が滅亡しました。
・斎藤家が滅亡しました。
 
■1559年 秋〜冬
 
 清水宗治(軍12政10魅14)が仕官。相対的には中庸な武将だが、中国地方では優秀かつ忠義者で胸が躍った。宇喜多軍は全滅でなく退却させようと3倍近い兵力を動員したが、退却先があるのに真正直に野戦を挑んできたので、手加減せずに全滅を達成。東では三木家の三木城(播磨)を包囲し、西では大友家の武将1・兵力40を倒す。
 
・外様大名の別所家が滅亡しました。
・宇喜多家が滅亡しました。
・波多野宗高が波多野家の家督を相続します。
・大友親貞が大友家の家督を相続します。
・足利家義輝が滅亡しました。
 
■1560年 春
 
 開始から5年経過した尼子家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高178 兵力267 所持金100
 
 野戦を極力行わず、出雲国の要塞を犠牲にするでもなく、順風満帆と称しても過言ではない。軍団配置や行動順を踏まえた読みが機能したこと以外に、毛利家・宇喜多家・陶家が他地方へ赴いてくれたのと、大友家の意外な体たらくが要因だろう。
 
●武将
・尼子晴久  知行27 兵数40 忠義 ─
 佐世清宗  知行 0 兵数 1 忠義14
 花房正幸  知行 0 兵数 1 忠義20
・宇山久兼  知行21 兵数40 忠義25
・立原久綱  知行21 兵数40 忠義25
・米原綱寛  知行21 兵数40 忠義24
・三刀屋久祐 知行 2 兵数 1 忠義 1
・小笠原長雄 知行21 兵数40 忠義22
・清水宗治  知行21 兵数 9 忠義25
・尼子義久  知行 0 兵数 2 忠義25
・一色義幸  知行21 兵数28 忠義18
 一色義幸  知行21 兵数25 忠義25
 
 野戦が数少ないので軍事の低さは気にならなかったが、政治の低さは城普請で大いに味わった。それでも褒美を最初に与えておけば安定する忠義者が揃うのは精神衛生上、気楽で良い。尚、三刀屋久祐が生存しつつ裏切りもしないのは意味不明。
 
●大名家
・北条家 石高 97 兵力 95 敵対:上杉
・今川家 石高332 兵力360 敵対:浅井
・武田家 石高101 兵力173 敵対:上杉
・上杉家 石高165 兵力272 敵対:北条 武田
・朝倉家 石高135 兵力109 敵対:波多野
・大友家 石高 74 兵力 22 敵対:尼子
 
 甲相駿三国同盟は健在。石高30前後の中堅勢力に、里見家・浅井家・波多野家・細川家・三好家・鈴木家がいる。九州地方には大友家以外に10大名家が存命だが、石高は全て一桁。3度の飢饉と1度の台風で、豊後国以外は荒廃地になってしまった。
 
 
 尼子義久(軍11政7魅15)が元服。能力値を比べればすぐに大名の座に推戴したくなるが、晴久より非常に低い士気が響きそうなので、現状維持で進める。
 
・三木家が滅亡しました。
・小山家が滅亡しました。
・畠山家高政が滅亡しました。
 
■1560年 夏〜冬
 
三刀屋久祐が、大友親貞に寝返りました。

 言った側から。大友家を滅亡狙いで武将1まで追い込んだ矢先に、これを警戒せずに軽率な軍団配置をした自分を戒めたい。その後、長門国に誘引して滅亡まで、残り一手。
 
大友新貞が、今川義元の軍門に下りました

 蘆名家・宇都宮家豊綱・波多野家・相馬家に続き、行動順の最後なのが憎い。本当に偶然に閾値の石高400を今川家が超えたのだろうが、本作の思考ルーチンを改めて罵ってやれば、人間様に対して失礼極まれりだ←褒め言葉。
 尚、四国地方で地味に粘る三好家・本願寺家を独力で滅亡させた細川家は、当家に阿ってきた。よしよし。両家共に今川家と交戦しており、必然の流れで兵力400対兵力600が敵対する。尼子家は初っ端から外様大名2家を屠り、今川家は阿波国経由で美作国へ上陸と、開幕から熾烈な攻防戦だ。
 
・外様大名の波多野家が滅亡しました。
・外様大名の大友家が滅亡しました。
・一条家が滅亡しました。
・松永家が滅亡しました。
・外様大名の相馬家が滅亡しました。
・鈴木家が滅亡しました。
 
■1561年 春〜夏
 
 近畿地方と四国地方の大半を無防備にした代わりに、岡山城(美作)で武将6・兵力138を、安芸城(土佐)で武将1・兵力40を討ち取った。また、亀山城(丹波)を包囲中の今川軍が、朝倉家のちょっかいで孤立しているのを拾い上げ、武将4・兵力96に退路遮断をお見舞いもする。相次ぐ野戦を経て、両家は兵力300で互角に。
 
・外様大名の高梨家が滅亡しました。
・長尾政景が上杉家の家督を相続します。
・外様大名の斎藤家義龍が滅亡しました。
・外様大名の後藤家が滅亡しました。
 
■1561年 秋
 
 両家の戦意は更に高ぶり、当家は武将25・兵力354を二手に分けて 今川家の武将5・兵力96及び武将5・兵力152に全滅を食らわした。特に標的にした訳ではないが、戦死者には東海一の弓取りも含まれる。
 
・外様大名の蘆名家が滅亡しました。
・外様大名の宇都宮家豊綱が滅亡しました。
・井伊直盛が今川家の家督を相続します。
 
■1561年 冬
 
 当家所属の三好家を継いだばかりの十河一存が旧今川家に寝返ったのは、捨て駒に力攻めにと使い潰した上でのことなので、気持ちはわかる。しかし、独立勢力で阿蘇家を継いだばかりの阿蘇惟将も追随したので様子を窺うと、隈本城(肥後)で武将1・兵力1になっていた。これは不毛の地の九州地方で「城レベル>兵力」が崩れて争いが起きたのではなく、大名の他界により兵力が失われたからか。それにしても、あれから飢饉も台風も訪れていないのに、CPUの自動内政が効くはずの筑後国が石高10・大隅国が石高3なのは、悲惨を超えて不可解だ。大友家から井伊家に譲られた豊後国は石高65と、日本有数の豊饒の地となっているのに。
 九州地方の動静はともかく、旧今川家は兵力100を割った。当家も兵力150まで大怪我を負っており、空城攻めと小競り合いだけして安静に努めよう。
 
・阿蘇家惟豊が享年69、阿蘇惟将が家督を相続します。
・相良晴広が享年49、深水宗芳が家督を相続します。
・外様大名の扇谷上杉家が滅亡しました。
 
■1562年 春
 
 延暦寺(山城)にて、またもや朝倉家の干渉によって孤立した井伊家の武将4・兵力57を、例によって退路遮断。好都合にも朝倉家も先行で包囲軍を派遣しており、一挙両得となった。
 
・外様大名の安宅家が滅亡しました。
・阿蘇惟将が井伊家の家督を相続します。
・浅井久政が朝倉家の家督を相続します。
 
■1562年 夏〜秋
 
 怒涛の勢いの我が軍が図らずも旧今川家を根絶やしにし、九州地方で今川家に唯一降伏していた阿蘇家惟将が、広大な遺領を相続して巨大勢力に変貌。関東地方の里見家を外様大名とし、歪な体制を作り出してしまった。そんな大出世の可能性を夢見てか、奥州地方から伊達家・中野家が追従する。
 
・外様大名の伊達家が滅亡しました。
 
■1562年 冬〜1563年 春
 
尼子晴久「浅井長政を説得して参る」
浅井長政「浅井長政でござる」
浅井長政「有難き幸せにございまする」
浅井長政「有難き幸せ」

 
 朝倉家の後継の浅井家は勢多城(南近江)にて一手詰め状態で、野戦において事故で討ち取ってしまう危険から調略を使用。待望の有能な人材、浅井長政(軍17政16魅15)を石高30で寝返らせ、重臣へ抜擢後に褒美をやるまでの一部始終だ。彼のお陰で山中鹿之介が登場してくれなかった傷も癒えた。
 旧上杉家は旧今川家に降伏。浅井家は滅亡。当家は無人同然の近畿地方を突き進み、越前国・美濃国・尾張国に到着した。
 
・外様大名の里見家が滅亡しました。
・外様大名の中野家が滅亡しました。
・浅井家が滅亡しました。
 
■1563年 夏
 
野中鎮兼が謀反を起こし挙兵しました。
野中鎮兼が我らが軍門に下って参りました。
野中鎮兼が、尼子晴久の軍門に下りました。
 
 筑前国より届いた吉報も、当初は事態を把握出来なくて困惑。阿蘇家惟将に野中鎮兼が仕官→野中鎮兼を重臣抜擢→野中鎮兼を立花城(筑前)に移動→野中鎮兼が謀反で説明が付き、実は安堵した。何せ、未知のバグの発生かと思ったから。とにもかくにも、これで水軍力の金銭問題を抜きに九州地方を攻められるようになり、討伐隊を速やかに送り込んだ。
 主戦場では浅井家の遺領配分で北陸地方を治めた武田家と初交戦し、大聖寺城(加賀)にて武将8・兵力156を全滅させ、高坂昌信(軍17政5魅11)・飯富虎昌(軍19政5魅13)・真田幸隆(軍8政21魅19)の名将を家臣に迎えられた。尚、色々あって書き損ねるところだったが、尼子倫久(軍4政2魅8)が元服。
 
■1563年 秋〜冬
 
 石高が500を突破し、大崎家と最上家が当家に救援を求めてきたものの、既に北条家の奥州平定軍がいて処置無し。九州地方への突破口が開けた分、奥州地方にも別動隊を編成させて天下統一を早めたかったのに。武田家は武将5・兵力143が全滅させられ、総戦力武将4・兵力92と瞬く間に凋落。
 
・外様大名の大崎家が滅亡しました。
・外様大名の木曽家が滅亡しました。
・龍造寺家が滅亡しました。
・松浦家が滅亡しました。
・外様大名の長尾家が滅亡しました。
 
■1564年 春〜冬
 
真田幸隆「有馬義貞が賢明なれば降伏して参るでしょう」
有馬義貞「今より尼子晴久殿を主君と仰ぎ奉る‥‥」

 
 葛西家・阿蘇家惟前・小野寺家・南部家は自主降伏と、外様大名と水軍力が次々に増えてゆく。阿蘇家惟前は旧今川家の阿蘇家惟将からの兵糧攻め中で、救出に一定期間の猶予があったものの、星回りが悪くて行動順と水軍戦で合計4連敗を喫して失敗。
 ちなみに、この阿蘇家惟将が旧今川領を乗っ取った時空の歪みで、羽柴秀吉が仕えていて一見の価値があった。
 
・筑紫家が滅亡しました。
・武田勝頼が武田家の家督を相続します。
・外様大名の最上家が滅亡しました。
・外様大名の葛西家が滅亡しました。
・原虎胤が武田家の家督を相続します。
・外様大名の阿蘇家惟前が滅亡しました。
・外様大名の小野寺家が滅亡しました。
・安東家が滅亡しました。
・外様大名の南部家が滅亡しました。
 
■1565年 春〜秋
 
真田幸隆「深水宗芳が我らの軍門に下るも、もはや時間の問題」
深水宗芳「今より尼子晴久殿を主君と仰ぎ奉る‥‥」
深水宗芳「島津貴久が我らの軍門に下るも、もはや時間の問題」
島津貴久「この上はなにとぞ、尼子軍の幕閣にお加えくだされ!」

 
 いつもCPUに事大主義の連鎖を見せ付けられている分、自分が脅迫の連鎖を成功させられると実に気分が良い。一方、当家主力は一目散に東へ突っ走り、北条軍との会敵を目指している。旧武田家は檜山城(出羽)にて武将1・兵力40が、北条軍の強い圧迫を受けて亡国寸前だが、まだ越後国経由の逃げ道はあり。
 一宇治城(薩摩)に阿蘇家惟将の武将5・兵力72を封じ込め、遂に旧今川家の傍系を殲滅させた。これでようやく東海地方や四国地方の不正占拠が解決し、尼子家の石高は四桁に。同時進行で高城(日向)で伊東家を、都於郡城(日向)で肝付家を、沼田城(上野)で原家を滅亡させ、北条家との頂上決戦のお膳立てを整えた。
 
・阿蘇家惟将が滅亡しました。
・伊東家が滅亡しました。
・肝付家が滅亡しました。
・原家が滅亡しました。
 
■1565年 冬〜1566年 春
 
 頂上決戦と言っても、石高1168・武将30・兵力946の尼子家に対し、北条家は石高421・武将16・兵力506では勝負にならない。季節に気付かずに大雪で退路遮断を受けたり、知行を見ずに野戦で士気の低い奴が大将になったり、くだらない失敗をして逆転劇が起きたら恥ずかしいが。現段階で注意すべきは、一揆を抑止出来ない武将に家督相続させないことくらいか。行動順で先の北条家は手広く6ヶ所に軍団を散らしたので、当家も4ヶ所で倣った。残り2ヶ所は耐久度に余裕があり、敢えて無人にしておびき寄せ、敵武将を討ち取ち易くしておく。
 
・北条綱成が北条家の家督を相続します。
 
■1566年 夏
 
 天下統一を間近に控えた尼子家。
 
●戦力
・石高1204 兵力933 所持金64
 
 中盤からは武田家や北条家より九州地方の処遇に頭を抱えていたが、野中鎮兼の短兵急な謀反即降伏に助けられ、中堅勢力としては疾風迅雷の早さで幕引きを迎えられた。大友家を一手違いで今川家に降伏させていなければ、もっと高効率で全国制覇が出来たかもしれない。
 
●武将
・尼子晴久  知行191 兵数40 忠義 ─
 成田氏長  知行  0 兵数 1 忠義14
 田原紹忍  知行  0 兵数 1 忠義14
 正木時忠  知行  9 兵数18 忠義16
 肝付兼盛  知行  0 兵数 1 忠義25
 大道寺政繁 知行  0 兵数 1 忠義24
 高城胤辰  知行  0 兵数 1 忠義25
 正木時茂  知行 42 兵数23 忠義 9
 伊達輝宗  知行 42 兵数18 忠義 8
・宇山久兼  知行 36 兵数40 忠義24
・立原久綱  知行 36 兵数39 忠義25
・米原綱寛  知行 36 兵数10 忠義25
・浅井長政  知行 39 兵数10 忠義18
 小幡虎盛  知行 30 兵数16 忠義23
・小笠原長雄 知行 36 兵数38 忠義25
・清水宗治  知行 39 兵数17 忠義25
・尼子義久  知行 36 兵数40 忠義19
 尼子義久  知行 33 兵数40 忠義25
・飯富虎昌  知行 39 兵数40 忠義22
 真田幸隆  知行 33 兵数13 忠義24
・高坂昌信  知行 33 兵数40 忠義23
・甲斐宗運  知行 39 兵数15 忠義18
・赤池長任  知行 33 兵数35 忠義17
・一色義幸  知行 30 兵数27 忠義24
 一色義道  知行 30 兵数35 忠義25
 一色義清  知行 30 兵数10 忠義24
・細川晴元  知行 30 兵数40 忠義24
 細川氏綱  知行 30 兵数40 忠義21
 池田勝正  知行 30 兵数36 忠義25
・野中鎮兼  知行 30 兵数38 忠義23
・有馬義貞  知行 30 兵数38 忠義17
・深水宗芳  知行 30 兵数40 忠義22
・島津貴久  知行 30 兵数34 忠義20
 高橋鑑種  知行 30 兵数34 忠義20
 島津忠将  知行 30 兵数24 忠義25
 伊集院忠朗 知行 30 兵数21 忠義25
 伊集院忠倉 知行 30 兵数23 忠義25
 
 当初の「枯れ木も山の賑わい」の心理状態が継続し、不要な外様大名の配下までも厚遇してしまい、随分と面倒見の良い大名家となった。この調子なら天下泰平後の幕府も安泰と言ったところか。宇山久兼・立原久綱・米原綱寛・小笠原長雄の譜代四人衆は、低能力とは無関係に大車輪の活躍をしてくれて、いつしか愛着が。
 
 
 行動順で先手を引き、当家が全軍団を江戸城(武蔵)へ集合を掛けると、北条家も国府台城(下総)に全軍団の武将6・兵力159を結集させてくれた。ここから莫大な直轄領を活かして正木時茂と伊達輝宗を一本釣りし、退却させない程度に有利な軍勢で侵攻後、力攻めで頂上決戦を制した。
 
・北条家が滅亡しました。
 
 
1566年 夏
 
尼子晴久は天下人となった。

 
■あとがき
 
 幸いにも同盟が必要な戦況にならず、コマンド自体を使わずに済んで胸を撫で下ろしています。落第生ばかりの家臣に足を引っ張られず、士気だけが高い大名も野戦で大活躍して、尼子家を選んだ足枷の重みを感じにくい展開でした。尼子家の最善の攻略手順は、大友家と同盟して九州地方と四国地方の占有を任せ、中盤に大友軍が和泉国経由で大和国へ入った瞬間に港を封鎖して遺領総取りが鉄板と考えており、同盟無しでも存外に敢闘可能だと知れたのは収穫です。とは言え、褒美を与える前に家臣が寝返ってリセットしたり、それを除いても一発目でのクリアではなかったりと、相応の苦杯を舐めて辿り着いた内容でもあります。繰り返して遊び尽くしたい大名かと問われれば、答えに悩みますね。
 
 
 
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