■群雄割拠 肝付家リプレイ
 
 大名:D 戦力:F 配下:F 地利:B 難易度:上級
 
●戦力
・石高8 兵力10 所持金1000
 
 居城含めて数値上は見るも無残な最弱級勢力な反面、上級者なら意外な立地の良さに気付けるはず。適度な難度で最底辺から成り上がりたい人向けだが、リロード禁止だと台風と飢饉の理不尽な被害で手も足も出なくなる危険も。また、中盤から水軍の問題を突き付けられ、終盤の遺領総取りも難しい。
 
●武将
・肝付兼続 軍事16 政治 4 魅力 8 士気15 忠義 ─
・肝付兼盛 軍事 8 政治 2 魅力 5 士気 7 忠義21
 
 大名の軍事と士気が高めなのは心の拠り所で、配下が凡将とは言っても1人いるのといないのとでは戦略の幅が全然違う。自ら進んで弱小勢力を選んだ者に、必要最低限の道具だけは渡してくれた感覚だ。
 
●外交
 友好的な勢力は不在で、CPU担当だと降伏の猶予も与えられずに即滅亡が確定的だが、余計な同盟が無くて戦い易いと捉えたい。
 
 
 リロードは禁止、同盟は必要ならば可で進行します。
 
■1555年 春〜夏
 
 現在地の高山城(大隅)に座していると、当家の倍以上の戦力を持つ島津家の敵意を刺激してしまう為、忍術「隠れ蓑」を使う。伊東家の都於郡城(日向)が、当家でも勝てる程に手薄かつ山脈で西との街路が通じていないのを利用し、間借りして大隅国から姿を消すのだ。この思惑は幸いにも見破られず、島津家は全軍団が北へ進軍してくれた。
 
肝付兼続「我が旗の向かう所、敵なし!」
 
・富樫家が滅亡しました。
・宇都宮家長房が滅亡しました。
・織田家信広が滅亡しました。
・千葉家が滅亡しました。
・沼田家が滅亡しました。
 
■1555年 秋
 
 菱刈家の蒲生城(薩摩)を勇んで攻め立てた島津軍は、一度で落城させられずに足止めを食らっており、空城攻めの格好の機会が到来。都於郡城の包囲を継続しつつ、内城(薩摩)へお邪魔しておいた。配下が1人でもいれば、このような二正面作戦が可能なので非常に助かる。
 
・菱刈家が滅亡しました。
・神保家が滅亡しました。
・足利家晴氏が滅亡しました。
 
■1555年 冬〜1556年 夏
 
 一手遅れで蒲生城を落とし、当家の三倍の戦力を有した島津家。内城に帰還されてはお手上げだと、先んじて包囲を解いて都於郡城に隠れ、敵軍の北上を促す。結果は要望通り、島津軍は相良家の人吉城(肥後)で再度の足止めを食らい、内城に二度目の空城攻めを行えた。戦法「一時撤退」を用いて、徴兵と空城攻めの両立も。
 
・長野家が滅亡しました。
・安芸家が滅亡しました。
・里見家が滅亡しました。
・水野家が滅亡しました。
・遠山家が滅亡しました。
・織田家信行が滅亡しました。
・相良家が滅亡しました。
 
■1556年 秋〜冬
 
 九州地方に豊作が訪れ、我らの大隅国の石高が10に。初めての石高加算で侵攻を伴わないのは珍しい。一方、肝付家の密かな狼藉に気付いた島津家が軍団を分散させ、兵力16の内城救出軍を編成。当家は両面で「一時撤退」を採用した後に都於郡城へ舞い戻り、やっとで最初の領土拡張を成した。尚、石高加算はたったの3で、日向国の荒涼な大地には恐れ入る。
 
・山内上杉家が滅亡しました。
・外様大名の椎名家が滅亡しました。
・小田家が滅亡しました。
・阿蘇家惟豊が滅亡しました。
 
■1557年 春
 
 先手で島津軍が武将5・兵力61を人吉城に集中させ直したので、後手の肝付家は悠々と空城攻め。耐久度7を兵力23で兵糧攻めしてもまず落とせないが、ここは勝負所だと力攻めを選んで内城は陥落。
 
・宇都宮家広綱が滅亡しました。
・外様大名の高梨家が滅亡しました。
・秋月家が滅亡しました。
・尼子家が滅亡しました。
 
■1557年 夏〜冬
 
 島津軍が内城奪回用に、兵力46を準備。兵力25の当軍に勝ち目は皆無だし、今までの苦労を思い返せば退却して仕切り直す気にもなれない為、戦法「先攻め」に命運を委ねる。緊張の行動順は、先手で安泰。ここで丁半博打に負けていたらリセット不可避な、極めて緊迫の場面だった。
 やがて、島津軍が守りより攻めを優先し出してくれたので、「一時撤退」「先攻め」で一宇治城を落城まで追い詰めた。今度は前とは異なり、行動順に左右されない状況だ。
 
・土持家が滅亡しました。
・河野家通存が滅亡しました。
・波多野宗高が波多野家の家督を相続します。
・赤松家が滅亡しました。
 
■1558年 春
 
 島津家の主力は肥前国から日向国へ進路を変え、伊東家の高城(日向)を包囲中。自ずと蒲生城の守備兵は手薄になり、開始から丸3年経過で初めての野戦を仕掛けた。武将2・兵力40の肝付軍は龍ヶ山の戦いで、武将3・兵力24の島津軍を打ち破って攻城戦に向かう。
 
・相馬家が滅亡しました。
・河野家海岸が滅亡しました。
 
■1558年 夏〜秋
 
九州地方に台風が上陸しました。
 
 忘れた頃にやって来る災害で、石高3を失って筆者の士気が急降下。都於郡城から同石高を得た時は、やれやれと言った態度だった癖に。その都於郡城が、高城を落とした島津軍に狙われており、対応しておく。
 
・長宗我部家が滅亡しました。
・伊東家が滅亡しました。
 
■1558年 冬〜1559年 夏
 
 蒲生城を落城させて薩摩国を統一し、島津忠将(軍18政2魅9)・伊集院忠朗(軍17政6魅10)を配下に迎え、各数値は石高35・武将4・兵力55に。次は南九州から島津家の残り香を一掃すべく、ほぼ無人の人吉城へ攻撃を開始…までは順調だったのに、一宇治城を阿蘇家惟前に盗まれてしまう。これは完全な無警戒ではなく、宇土城(肥後)の「城レベル>兵力」が知らぬ間に崩れていたせいなのは、言い訳しておきたい。
 
島津忠将「肝付家のために粉骨砕身してご奉公奉る」
伊集院忠朗「老骨に鞭打って、ご奉公いたしまする‥‥」

 
・山名家が滅亡しました。
・波多野家が滅亡しました。
・蘆田家が滅亡しました。
・外様大名の扇谷上杉家が滅亡しました。
・色部勝長が上杉家の家督を相続します。
・三雲成持が六角家の家督を相続します。
・十河一存が三好家の家督を相続します。
・海北綱親が朝倉家の家督を相続します。
・本願寺家が滅亡しました。
 
■1559年 秋〜冬 
 
 阿蘇家惟前は薩摩国を蹂躙することなく宇土城へ戻ってくれた上に、筑紫家の隈本城(肥後)を囲みに行ったので不問と致す。島津家は人吉城を落城させられ、領地が高城のみとなって堪らず大友家に臣従し、日向国で暴れ出したので鎮圧に向かう。当軍が宇土城に空城攻めに行くと、一歩先に海を渡って有馬家が囲んでいた為に余分な野戦が発生したが、兵力差があり問題にならなかった。
 
・織田家信長が滅亡しました。
・中野家が滅亡しました。
・龍造寺家が滅亡しました。
・有馬家が滅亡しました。
 
■1560年 春
 
 開始から5年経過した肝付家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高26 兵力48 所持金14259
 
 一宇治城と都於郡城を奪い返されてしまい、戦力の伸びが頭打ちどころか下落しており、歳月の割には厳しい数字なのは否めない。徒に増えるばかりの貯金を使い出せるのは、いつになるやら。
 
●武将
・肝付兼続  知行17 兵数30 忠義 ─
 山田匡徳  知行 0 兵数 1 忠義12
・肝付兼盛  知行 5 兵数11 忠義25
・島津忠将  知行 1 兵数 3 忠義25
・伊集院忠朗 知行 1 兵数 3 忠義25
 
 島津家の猛将を2人接収出来たのは大きいが、大名直轄領が意図せず20万石を割ってしまうのは本作において恥ずかしい失態ではなかろうか。
 
●大名家
・佐竹家 石高141 兵力206 敵対:北条
・北条家 石高121 兵力131 敵対:佐竹
・今川家 石高175 兵力241 敵対:武田
・武田家 石高100 兵力168 敵対:今川
・松永家 石高106 兵力108 敵対: ―
・毛利家 石高164 兵力133 敵対: ―
・大友家 石高109 兵力169 敵対: ―
 
 散発する百姓一揆に負けずに健闘している佐竹家と、勢力の伸長が鈍い今川家が耳目に値するか。西日本の御三家はなぜか揃って、中堅勢力との小競り合いに手こずって直接対決していない。これは天下統一の難度が下がる代わりに、時間が掛かってしまう情勢だ。
 
 
 その数多の中堅勢力の一つである当家は全軍団を四方に投じ、一宇治城・都於郡城・高城・宇土城への同時侵攻を実現した。
 
・外様大名の島津家が滅亡しました。
・外様大名の一条家が滅亡しました。
 
 
 
 
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