■群雄割拠 肝付家リプレイ
 
 大名:D 戦力:F 配下:F 地利:B 難易度:上級
 
●戦力
・石高8 兵力10 所持金1000
 
 居城含めて数値上は見るも無残な最弱級勢力な反面、上級者なら意外な立地の良さに気付けるはず。適度な難度で最底辺から成り上がりたい人向けだが、リロード禁止だと台風と飢饉の理不尽な被害で手も足も出なくなる危険も。また、中盤から水軍の問題を突き付けられ、終盤の遺領総取りも難しい。
 
●武将
・肝付兼続 軍事16 政治 4 魅力 8 士気15 忠義 ─
・肝付兼盛 軍事 8 政治 2 魅力 5 士気 7 忠義21
 
 大名の軍事と士気が高めなのは心の拠り所で、配下が凡将とは言っても1人いるのといないのとでは戦略の幅が全然違う。自ら進んで弱小勢力を選んだ者に、必要最低限の道具だけは渡してくれた感覚だ。
 
●外交
 友好的な勢力は不在で、CPU担当だと降伏の猶予も与えられずに即滅亡が確定的だが、余計な同盟が無くて戦い易いと捉えたい。
 
 
 リロードは禁止、同盟は必要ならば可で進行します。
 
■1555年 春〜夏
 
 現在地の高山城(大隅)で座視していると、当家の倍以上の戦力を持つ島津家の敵意を刺激してしまう為、忍術「隠れ蓑」を使う。伊東家の都於郡城(日向)が、当家でも勝てる程に手薄かつ山脈で西との街道が通じていないのを利用し、間借りして大隅国から姿を消すのだ。この思惑は見破られず、島津家は全軍団が北へ進軍してくれた。
 
肝付兼続「我が旗の向かう所、敵なし!」
 
・富樫家が滅亡しました。
・宇都宮家長房が滅亡しました。
・織田家信広が滅亡しました。
・千葉家が滅亡しました。
・沼田家が滅亡しました。
 
■1555年 秋
 
 菱刈家の蒲生城(薩摩)を勇んで攻め立てた島津軍は、一度で落城させられずに足止めを食らっており、空城攻めの機会が到来。都於郡城の包囲を継続しつつ、内城(薩摩)へお邪魔しておいた。配下が1人でもいれば、このような二正面作戦が可能なので非常に助かる。
 
・菱刈家が滅亡しました。
・神保家が滅亡しました。
・足利家晴氏が滅亡しました。
 
■1555年 冬〜1556年 夏
 
 一手遅れで蒲生城を落とし、当家の三倍の戦力を有した島津家。内城に帰還されてはお手上げだと、先んじて包囲を解いて都於郡城に隠れ、敵軍の北上を促す。結果は要望通り、島津軍は相良家の人吉城(肥後)で再度の足止めを食らい、内城に二度目の空城攻めを行えた。戦法「一時撤退」を用いて、徴兵と空城攻めの両立も。
 
・長野家が滅亡しました。
・安芸家が滅亡しました。
・里見家が滅亡しました。
・水野家が滅亡しました。
・遠山家が滅亡しました。
・織田家信行が滅亡しました。
・相良家が滅亡しました。
 
■1556年 秋〜冬
 
 九州地方に豊作が訪れ、我らの大隅国の石高が10に。初めての石高加算で侵攻を伴わないのは珍しい。一方、肝付家の忍びやかな狼藉に気付いた島津家が軍団を分散させ、兵力16の内城救出軍を編成。当家は両面で「一時撤退」を採用した後に都於郡城へ舞い戻り、やっとで最初の領土拡張を成した。尚、石高加算はたったの3で、日向国の荒涼な大地には恐れ入る。
 
・山内上杉家が滅亡しました。
・外様大名の椎名家が滅亡しました。
・小田家が滅亡しました。
・阿蘇家惟豊が滅亡しました。
 
■1557年 春
 
 先手で島津軍が武将5・兵力61を人吉城に集中させ直したので、後手の肝付家は悠々と空城攻め。耐久度7を兵力23で兵糧攻めしてもまず落とせないが、ここは勝負所だと力攻めを選んで内城は陥落。
 
・宇都宮家広綱が滅亡しました。
・外様大名の高梨家が滅亡しました。
・秋月家が滅亡しました。
・尼子家が滅亡しました。
 
■1557年 夏〜冬
 
 島津軍が内城奪回用に、兵力46を動員。兵力25の当軍に勝ち目は皆無だし、今までの苦労を思い返せば仕切り直す気にもなれないし、戦法「先攻め」に命運を委ねる。緊張の行動順は、先手で安泰。ここで丁半博打に負けていたらリセット不可避な、極めて緊迫の場面だった。
 やがて、島津軍が守りより攻めを優先し出してくれたので、「一時撤退」「先攻め」で一宇治城を落城まで追い詰めた。前とは異なり、行動順に左右されない状況だ。
 
・土持家が滅亡しました。
・河野家通存が滅亡しました。
・波多野宗高が波多野家の家督を相続します。
・赤松家が滅亡しました。
 
■1558年 春
 
 島津家の主力は肥前国から日向国へ進路を変え、伊東家の高城(日向)を包囲中。自ずと蒲生城の防ぎ手は手薄になり、開始から丸3年経過で初めての野戦を仕掛けた。武将2・兵力40の肝付軍は龍ヶ山の戦いで、武将3・兵力24の島津軍を打ち破って攻城戦に向かう。
 
・相馬家が滅亡しました。
・河野家海岸が滅亡しました。
 
■1558年 夏〜秋
 
九州地方に台風が上陸しました。
 
 忘れた頃にやって来る災害で、石高3を失って筆者の士気が急降下。都於郡城から同石高を得た時は、やれやれな態度だった癖に。その都於郡城が、高城を落とした島津軍に狙われており、対応しておく。
 
・長宗我部家が滅亡しました。
・伊東家が滅亡しました。
 
■1558年 冬〜1559年 夏
 
 蒲生城を落城させて薩摩国を統一し、島津忠将(軍18政2魅9)・伊集院忠朗(軍17政6魅10)を配下に迎え、各数値は石高35・武将4・兵力55に。次は南九州から島津家の残り香を一掃すべく、ほぼ無人の人吉城へ攻撃を開始…までは順調だったのに、一宇治城を阿蘇家惟前に盗まれてしまう。これは完全な不注意ではなく、宇土城(肥後)の「城レベル>兵力」が密かに崩れていたせいなのは、言い訳しておきたい。
 
島津忠将「肝付家のために粉骨砕身してご奉公奉る」
伊集院忠朗「老骨に鞭打って、ご奉公いたしまする‥‥」

 
・山名家が滅亡しました。
・波多野家が滅亡しました。
・蘆田家が滅亡しました。
・外様大名の扇谷上杉家が滅亡しました。
・色部勝長が上杉家の家督を相続します。
・三雲成持が六角家の家督を相続します。
・十河一存が三好家の家督を相続します。
・海北綱親が朝倉家の家督を相続します。
・本願寺家が滅亡しました。
 
■1559年 秋〜冬 
 
 阿蘇家惟前は薩摩国を蹂躙することなく宇土城へ戻ってくれた上に、筑紫家の隈本城(肥後)を囲みに行ったので不問と致す。島津家は人吉城を落城させられ、領地が高城のみとなって堪らず大友家に臣従し、日向国で暴れ出したので鎮定に向かう。当軍が宇土城に空城攻めに行くと、一歩先に海を渡って有馬家が囲んでいた為に余分な野戦が発生したが、兵力差があり問題にならなかった。
 
・織田家信長が滅亡しました。
・中野家が滅亡しました。
・龍造寺家が滅亡しました。
・有馬家が滅亡しました。
 
■1560年 春
 
 開始から5年経過した肝付家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高26 兵力48 所持金14259
 
 一宇治城と都於郡城を奪い返されてしまい、戦力の伸びが頭打ちどころか下落しており、歳月の割には厳しい数字なのは否めない。徒に増えるばかりの貯金を使い出せるのは、いつになるやら。
 
●武将
・肝付兼続  知行17 兵数30 忠義 ─
 山田匡徳  知行 0 兵数 1 忠義12
・肝付兼盛  知行 5 兵数11 忠義25
・島津忠将  知行 1 兵数 3 忠義25
・伊集院忠朗 知行 1 兵数 3 忠義25
 
 島津家の猛将を2人捕捉したのは大きいが、大名直轄領が意図せず20万石を割ってしまうのは本作において恥ずかしい失態ではなかろうか。
 
●大名家
・佐竹家 石高141 兵力206 敵対:北条
・北条家 石高121 兵力131 敵対:佐竹
・今川家 石高175 兵力241 敵対:武田
・武田家 石高100 兵力168 敵対:今川
・松永家 石高106 兵力108 敵対: ―
・毛利家 石高164 兵力133 敵対: ―
・大友家 石高109 兵力169 敵対: ―
 
 散発する百姓一揆に負けずに健闘している佐竹家と、伸長が鈍い今川家が耳目に値するか。西日本の御三家はなぜか揃って、中堅勢力との小競り合いに手こずって直接対決していない。これは天下統一の難度が下がる代わりに、実時間が掛かってしまう情勢だ。
 
 
 その数多の中堅勢力の一つである当家は全軍団を四方に投じ、一宇治城・都於郡城・高城・宇土城への同時侵攻を実現した。
 
・外様大名の島津家が滅亡しました。
・外様大名の一条家が滅亡しました。
 
■1560年 夏〜秋
 
 薩摩国・肥後国を統一し、大友家と本格開戦。石高は大友家の約半分に留まる反面、地続きの豊後国が石高65・筑後国が石高30と、当家は雌伏の時を終えて成長期直前まで到達し、今後が楽しみになってきた。
 隈本城に全軍団を集結。大友家は寡兵を置いて当方の先攻めが確定し、主力は柳川城(筑後)へ侵攻させる。そこを囲むは、かつて薩摩国に土足で上がり込んだ不届き者で、不問としたのを取り消して懲らしめた。これだけで石高は一倍半に。
 
・阿蘇家惟前が滅亡しました。
・外様大名の小山家が滅亡しました。
・三雲家が滅亡しました。
・外様大名の一色家が滅亡しました。
・大崎家が滅亡しました。
 
■1560年 冬
 
 行動順に恵まれて大友家との休戦が成立し、当軍は矛先をずらして肥前国に土足で上がり込む。入口の佐嘉城(肥前)は武将3・兵力17の筑紫家の出迎えを受けるはずが、武将2・兵力41の松浦家が先に到着しており、松浦軍を全滅させて、佐嘉城を落として、幸運にも肥前国を一手で手中に収められた。
 
・筑紫家が滅亡しました。
・松浦家が滅亡しました。
 
■1561年 春〜冬
 
 首尾良く、鴨田胤忠(軍12政8魅4)と禰寝重長(軍11政12魅7)が仕官し、配下も石高と共に充実。九州地方から弱小勢力が駆逐されて陶家と隣接したのは、大友家と休戦しているので問題無い。強豪の大友家が中堅の陶家へ決定打を与えない内に、漁夫の利を得よう。早速、立花城(筑前)に空城攻めを。
 ちなみに、禰寝重長の「禰」は特殊な方法を用いねば、本作中の表記「礻爾」に出来ないとのこと。
 
・畠山家高政が滅亡しました。
・弘中隆兼が陶家の家督を相続します。
・外様大名の三木家が滅亡しました。
・蒲生家が滅亡しました。
・伊達家が滅亡しました。
・河田重親が色部家の家督を相続します。
・武田信繁が武田家の家督を相続します。
・足利家義輝が滅亡しました。
 
■1562年 春〜冬
 
 肝付家は春の開始時点で石高145・武将7・兵力132と、最初の5年間が嘘のように大国となった。まだ豊後国に手を付けていないし、貯金は13000以上もあるし、地図の西端を確保したしで、将来性も抜群だ。ただ、現段階ではどうしても激しい海戦を発生させないと本州上陸が無理そうな為、貯金は水軍力への投資用にゆとりを持って運用したい。
 夏が訪れ、府内城(豊後)・県城(日向)への侵攻を手配すると、自然と空城攻めになった。大友家は未だ、旧陶家と宇喜多家に領内を鬱陶しく掻き乱され、肝心の肝付家まで手が回らない。秋には2度目の台風が上陸し、当家は石高15の被害が出るも大名直轄領の20万石は固持。
 
・最上家が滅亡しました。
・外様大名の北畠家が滅亡しました。
・細川家が滅亡しました。
・斎藤家が滅亡しました。
・外様大名の真柄家が滅亡しました。
・稲葉一鉄が浅井家の家督を相続します。
・鈴木家が滅亡しました。
 
■1563年 春〜秋
 
 九州地方に残存する標的は、旧陶家の門司城(豊前)・毛利家の中津城(豊前)・大友家の臼杵城(豊後)。毛利家の出現に唐突感があるのは、越後国・北近江国まで東進している反動で、西方には伸びが弱いから。石高377・兵力241の巨大勢力で、今川家に元気が無い影響で近畿地方を席巻しそうな勢いだ。
 臼杵城の武将5・兵力96に、武将4・兵力120を衝突させて全滅を勝ち取ったが、これは損失も多くて張り切り過ぎたかも。他に、不意に無人となった中津城を包囲しておく。
 
・延暦寺家が滅亡しました。
・外様大名の宇都宮家豊綱が滅亡しました。
 
■1563年 冬
 
蒲池鎮竝「蒲池鎮竝と申しまする。是非とも殿の配下にお加え下され」
 
蒲池鎮竝が、弘中隆兼に寝返りました。
 
 名作と誉れ高き本作にも様々な難点があり、代表的な要改善点がお目見え。相当な凡将だし、滅亡間際の勢力へ寝返ったから、笑い飛ばせたけど。
 
■1564年 春〜夏
 
 旧陶家より宇喜多家より早く、大友家が毛利家の軍門に駆け込むとは、落ちぶれたものよ。当家は夏に門司城を落として九州地方の覇者を高らかに宣言…のはずが、その一瞬後に中津城が対岸から現れた毛利水軍に拉がれ、格好悪いのはお互い様であった。
 
・外様大名の木曽家が滅亡しました。
・外様大名の河田家が滅亡しました。
・武田家が滅亡しました。
・吉見正頼が弘中家の家督を相続します。
 
■1564年 秋〜冬
 
 秋の特別収入で貯金が25000まで膨らんだのを機に、水軍力を100まで上げる。本作の内政はどれも細かに行うのが効率的だが、水軍力に限っては中途半端な上昇は戦争の仕組みにおいて損をする為、満を持して軍船建造を実施。そして、肝付水軍の実質的初戦を直ちに始め、矢継ぎ早に本州上陸を狙った。
 
勢力肝付家吉見家
水軍力100100
1ターン12+513+5
2ターン9+97+8
3ターン12+13
4ターン1+15
5ターン11+11
6ターン1+4
7ターン7+14
8ターン
結果15
 
 後半は「ペチ」の三連発でやきもきさせられたが、比較的には公正な勝負で良し。勝山城(長門)で待ち構えていた武将2・兵力69は、当軍の武将5・兵力121に怯んで退却してくれた為、兵力に余裕があって一気呵成の力攻めで開門させ、本州上陸作戦は容易に成功。この段階で足踏みすると、天災で九州地方自体が兵糧攻め及び中央勢力の膨張を許すことになり、天下統一に向けて重要な区切りとなった。尚、毛利水軍にしてやられた中津城も守りが貧弱で同時に取り戻している。
 
・外様大名の三村家が滅亡しました。
・安東家が滅亡しました。
 
■1565年 春
 
 開始から10年経過した肝付家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高232 兵力292 所持金14
 
 5年間で著しい成長を遂げ、石高と兵力の割合が後述の敵勢力と比べて望ましい水準なのも、勢力拡大が順調に進んでいる証拠だ。貯金は水軍力に全て溶けてしまったものの、渡海において正攻法以外の方法が無かったので受け入れられる。
 
●武将
・肝付兼続  知行84 兵数40 忠義 ─
・肝付兼盛  知行21 兵数38 忠義25
・島津忠将  知行21 兵数38 忠義25
・伊集院忠朗 知行21 兵数40 忠義25
・鴨打胤忠  知行21 兵数35 忠義21
・禰寝重長  知行21 兵数38 忠義21
・蒲池鎮盛  知行 0 兵数 1 忠義 2
・田原親宏  知行21 兵数37 忠義25
・赤池長任  知行21 兵数25 忠義17
 
 急速な領地拡大にかまけて加増が滞っており、軍事と士気の高い者が野戦で大将に選ばれるように、すぐにでも調整していきたい。頭数は揃っているようで、元島津家家臣の老将2人はもちろん、大名の肝付兼続の寿命も前倒しを含めて気にせねばならない頃合いだから、配下の獲得は優先課題になる。
 
●大名家
・佐竹家 石高131 兵力164 敵対:北条
・北条家 石高358 兵力348 敵対:佐竹
・今川家 石高378 兵力224 敵対:松永
・松永家 石高183 兵力128 敵対:今川
・毛利家 石高499 兵力360 敵対:肝付
 
 北条家と今川家が同盟。相変わらず散発が止まらない百姓一揆を余所に、佐竹家が善戦していて珍しい。百姓一揆の破壊力を考えれば、九州地方の天災なんてちっぽけだと思い知らされた。他勢力は石高の割に兵力の増加が遅く、当家が来るべき日に正面衝突しても普通に戦えそうなのは朗報でも、面倒でもあり。
 
 
 中国地方の防衛意識は低く、亀尾城(長門)・小岩見城(石見)を立て続けに落とした。
 
・外様大名の佐野家が滅亡しました。
・佐竹義里が佐竹家の家督を相続します。
・外様大名の海北家が滅亡しました。
 
■1565年 夏
 
 百武賢兼(軍20政2魅3)が仕官。月山富田城(出雲)で武将2・兵力54を、郡山城(安芸)で武将2・兵力24を、草津城(安芸)で武将2・兵力63を仕留めてゆく。
 
・外様大名の浦上家が滅亡しました。
・外様大名の麻生家が滅亡しました。
・吉見家が滅亡しました。
 
■1565年 秋
 
 中国地方の平定に障害は見られない分、四国地方に上陸するには無傷の毛利水軍を撃沈しなければならないのが、金銭的にも時間的にも億劫と悩んでいたら、大洲城(伊予)の左方に赤い軍旗が棚引いているのを発見。今川家はおろか松永家も四国地方の西方まで来れるはずがないのに、これは一体?
 そんな謎の勢力の正体は、武将2・兵力31の宇喜多家であった。大注目の水軍力は0で、お陰様で手負いの肝付水軍でも素通り可能なのは、生きているだけで偉いと伝えたい気持ちに。
 
・福留親政が宇喜多家の家督を相続します。
 
■1565年 冬〜1566年 秋
 
 九州地方に飢饉が発生し、我らの本土の大隅国は石高2に。もう天災を怖がる段階でもないので、美作国と伊予国を統一して播磨国に突入。
 
・外様大名の十河家が滅亡しました。
・福留家が滅亡しました。
・外様大名の南部家が滅亡しました。
・外様大名の大友家が滅亡しました。
・佐竹義重が佐竹家の家督を相続します。
 
■1566年 冬
 
 肝付家勃興の立役者の一人である伊集院忠朗が天寿を全うし、寿命ドミノの開始が告げられた。天下統一の所要時間がまだ予測も出来ない状況では、当家の家督相続も致し方無しか。
 播磨国を電光石火で突破し、松永家の所領の摂津国へ。毛利家との同時交戦になるとは言え、松永家は今川家からの圧力に屈しつつあり、当家の不利にはならない。
 
・外様大名の稲葉家が滅亡しました。
 
■1567年 春〜秋
 
 肝付家・毛利家・松永家の三つ巴に今川家も参戦し、京の周辺で皆が混淆。当家は戦力・地利の両面で優位なのを実感し、近畿地方を自由奔放に闊歩させてもらった。そんな我らを咎めに来た武将7・兵力229及び武将6・兵力139の今川軍は、卑怯を承知でどちらも大将集中攻撃で跳ね返しておく。
 
・外様大名の畠山家義綱が滅亡しました。
 
■1567年 冬
 
 今川家で代替わりが起きたのは、戦場で全滅を勝ち取りたい当家には痛手。毛利軍主力が北陸地方を奥深くまで潜った挙句に北条軍に蹂躙され、かつて毛利家の全盛期に奥州地方から従属した小野寺家が家督相続したのは、もっと痛手。理由は翌年に。
 
・今川義元が享年49、今川氏豊が家督を相続します。
・小野寺景道が毛利家の家督を相続します。
 
■1568年 春〜秋
 
讃岐国の農民が一揆を起こしました。
 
 街道の繋がりが複雑な近畿地方で軍団配置に悩まされる中、四国地方と山陰地方の旧毛利領が爆弾に化けてしまった。一揆を鎮圧するのも、国を支配するのも、人手が足りない。いっそのこと、最後まで放置でいいか。
 山城国・和泉国に続いて北近江国に大軍を派兵すれば、越前国から南下してきた小規模の北条軍と邂逅し、北条氏康を楽に討ち取れた。今川軍は軍団を分散配置して広範囲を守ってきた為、各個撃破で応戦すれば家名が急速に傾いてゆく。
 
・北条綱成が北条家の家督を相続します。
 
■1568年 冬〜1569年 秋
 
 肝付家勃興の立役者の片割れである島津忠将が天寿を全うし、誰にドミノを繋げるやら。彼の代わりは務まらないが、肝付兼盛よりは優秀な肝付良兼(軍12政6魅11)が元服したのは予期せぬ喜び。
 近畿地方では大きな戦がほとんど起きず、肝付軍の快進撃は止まらない。武将7・兵力196の北条軍に、武将10・兵力307をぶつけて全滅させた一戦くらいだ。石高はとっくに必要十分な為、東進に貢献しない敵城は横目に見つつ、敵武将の討ち取りを活発化させてゆく。
 
・松永家が滅亡しました。
・大久保忠世が今川家の家督を相続します。
・外様大名の徳川家が滅亡しました。
・跡部勝資が大久保家の家督を相続します。
 
■1569年 冬
 
 九州最南端の最弱級勢力でしかなかった当家を、15年間で日本最大勢力に育て上げた偉人――肝付兼続が天寿を全うし、寿命ドミノの最後を飾った。後継者候補は、古参の肝付兼盛か新参の肝付良兼の2人で、迷わず後者を指名。能力値だけを見れば絶対に正しい選択だ。
 
・肝付兼続が享年59、肝付良兼が家督を相続します。
 
■1570年 春 
 
 開始から15年経過した肝付家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高839 兵力486 所持金6761
 
 勢力図では西日本を平定した一人勝ち状態で、惜しみ無き力攻めで東へ邁進し、北陸地方・甲州地方・東海地方の入り口まで辿り着いたが早いか、突き破っている。現況は盤石で、もう何も警戒していない。
 
●武将
・肝付良兼 知行259 兵数40 忠義 ─
・肝付兼盛 知行 45 兵数32 忠義25
・臼杵鑑速 知行 48 兵数40 忠義23
・鴨打胤忠 知行 48 兵数39 忠義25
・禰寝重長 知行 48 兵数38 忠義24
・明智光秀 知行 51 兵数40 忠義25
 菅沼定吉 知行  0 兵数 1 忠義25
 岡部元信 知行  0 兵数 1 忠義25
・田原親宏 知行 48 兵数40 忠義24
・赤池長任 知行 48 兵数40 忠義23
・百武賢兼 知行 51 兵数40 忠義25
 吉川元長 知行 48 兵数24 忠義25
・前田利家 知行 51 兵数40 忠義24
 安藤守就 知行 48 兵数40 忠義25
・蒲生氏郷 知行 51 兵数31 忠義24
 
 有名かつ有能な人物が適度に仕官・降伏してくれて、寿命ドミノを補って余りある陣容。家督相続による混乱も、一族を起用なので起きていない。
 
●大名家
・小野寺家 石高103 兵力110 敵対:北条
・佐竹家  石高 23 兵力 37 敵対:北条
・北条家  石高680 兵力210 敵対:小野寺・佐竹
・跡部家  石高231 兵力 49 敵対:肝付
 
 佐竹家は驚異の生存能力を発揮したが、毛利家の遺産を横取りしただけの小野寺家の方が大勢力なのは、戦国時代の不条理さが思い知れる。当家は北条家と刃を何度か交わしているにも拘らず、険悪で済んでいるのは謎だ。
 
 
肥後国の農民が一揆を起こしました。
 
 絶対に正しい選択は、彼には大名の最重要資質である一揆抑止力が無くて大誤算。さりとて、肝付兼盛でも同じな可能性は高いか。尚、肝付領は今まで一度も内政を行っていない修羅の国であり、どこから百姓一揆が噴出しても不思議ではない。いっそのこと、最後まで放置でいいか。
 
・佐竹義堅が佐竹家の家督を相続します。
・外様大名の蘆名家が滅亡しました。
 
■1570年 夏〜冬
 
 佐竹家が越後国で限界を迎え、当家の軍門に駆け込むも時既に遅し、物理的距離により救出不可能で無念。他に、安楽兼寛(軍10政6魅10)の元服と、元今川家の滅亡と、定期収入は約7000なのに所持金が夏に4901→99999になるバグが起きた。本現象の原因や発生条件は「序盤には起きない」くらいしか知見は無いが、今回「軍備政略フェイズで自勢力に順番が回り、画面が切り替った時に起きる」のが判明し、前述の一揆抑止力よりは真実解明に近付いたかもしれない。
 
・跡部家が滅亡しました。
・外様大名の佐竹家が滅亡しました。
 
■1571年 春〜冬
 
 肝付兼亮(軍6政10魅4)が元服。各地で連戦連勝。中盤に予測したとは言え、「天下分け目の天王山」が起きない展開だと終盤が単純作業で退屈だ。
 
・北条氏規が北条家の家督を相続します。
・山本寺定長が北条家の家督を相続します。
・山本寺家が滅亡しました。
 
■1572年 春
 
 最後の仕上げは、例の旧毛利家の小野寺家。武将3・兵力120は当家の敵ではないものの、小野寺家としては滅多に見られない強大さだ。先手で3つの城に1軍団ずつ配置されたので、退却されないように兵力差が倍未満の侵攻軍にして野戦を発生させる。どの城も耐久度は低めで、野戦勝利後の少なめな兵力でも力攻めして落城可能だった。
 
・葛西晴信が小野寺家の家督を相続します。
・葛西家が滅亡しました。
 
■1572年 夏 
 
 丹波国・肥前国・筑後国・伊勢国・日向国・山城国・美作国・大隅国・山城国・摂津国。これは代替わり以降に自領で飛び火した、百姓一揆の発生順。
 
■1572年 秋
 
 天下統一を間近に控えた肝付家。
 
●戦力
・石高1884 兵力63900 所持金88699
 
 最後に残った唯一の敵城が、開始位置の高山城なのは偶然にしては出来過ぎだ。
 
●武将
・肝付良兼 知行1122 兵数40 忠義 ─
・肝付兼盛 知行  51 兵数40 忠義24
 肝付兼亮 知行  48 兵数40 忠義25
 安楽兼寛 知行  48 兵数40 忠義19
・臼杵鑑速 知行  51 兵数39 忠義25
・鴨打胤忠 知行  51 兵数40 忠義25
・禰寝重長 知行  51 兵数40 忠義25
・明智光秀 知行  54 兵数40 忠義22
・田原親宏 知行  51 兵数40 忠義23
・赤池長任 知行  51 兵数40 忠義21
・百武賢兼 知行  54 兵数40 忠義16
 吉川元長 知行  51 兵数40 忠義25
・前田利家 知行  51 兵数40 忠義24
 安藤守就 知行  48 兵数40 忠義25
・蒲生氏郷 知行  54 兵数40 忠義25
 真壁氏幹 知行  48 兵数40 忠義22
 
 軍事以外は冴えない初代当主の頃から一途に、ありがたくも皆の忠義が安定したのは見逃せず、所持金の心配と操作の手間をかなり軽減してくれた。配下の増え方も石高の増加に合わせてだったし、戦下手な者を野戦で使わねばならない苦労も無かったし、その名を改めて眺めても優秀な家臣団だ。
 
 
 肥後国と日向国の百姓一揆に街道を封鎖され、大隅国の百姓一揆だけ春に鎮圧が出来なかった。拠点の領国すら管理しなかった天罰のように思え、次の機会があれば弱小大名なのに内政が開幕から可能な利点を活かし、田畑でも市場でも住民たちが喜んでいる大隅国に仕立てたい。石高2で放置した件、ご容赦下され。
 
 
1572年 夏
 
肝付良兼は天下人となった。

 
■あとがき
 
 不可抗力とは言え、見所や山場に欠ける尻すぼみな展開になってしまい、読み物として面白くなりませんでした。再現性が低いので攻略として通用するのは、南九州編だけでしょう。自分が必要以上に好調だと相対的にCPUが不調になり、巡り巡ってクリアが遅くなる上に内容も希薄化してしまうのは、本作に限らず戦略シミュレーションのありがちな短所ですね。ともかく、リロードと同盟を無しで天下統一の目標を、一発で達成なのは喜びではあります。
 肝付兼続の寿命に間に合わないのが早くから内定した上、直後の百姓一揆の続発は無警戒で心が折れました。『バハムート戦記』の「紛れ込み」は発売から約20年で解明を出来ましたが、本作の「一揆抑止力」の謎が解けるのはいつになるのやら。武将毎の設定だけではなく、シナリオや年代の影響も確実にあって検証するには複雑怪奇で、リプレイ史上で初発生した所持金MAXのバグも含め、本作と現実時間で約30年も付き合って手掛かりすら掴めません。
 
 
 
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