■天下布武 龍造寺家リプレイ
 
 大名:C 戦力:C 配下:A 地利:A 難易度:上級
 
●戦力
・石高45 兵力74 水軍力0 所持金2000
 
 シナリオ2において平凡な規模で、天下統一には戦略面での工夫と展開の恩恵が必須。それでも織田家から遠く離れている分、上杉家や毛利家よりも気楽ではある。特筆すべきは、港を持っているのに水軍力が無いことだ。
 
●武将
・龍造寺隆信 軍事22 政治 4 魅力10 士気20 忠義 ─
・龍造寺信周 軍事 6 政治11 魅力15 士気13 忠義25
・成松信勝  軍事16 政治 6 魅力10 士気12 忠義23
・鍋島直茂  軍事18 政治17 魅力14 士気20 忠義13
 隅部親永  軍事14 政治10 魅力 6 士気 ─ 忠義13
・百武賢兼  軍事20 政治 2 魅力 3 士気16 忠義19
・円城寺信胤 軍事15 政治 8 魅力 8 士気14 忠義14
・龍造寺長信 軍事12 政治 2 魅力 9 士気 9 忠義21
 大村純忠  軍事 4 政治14 魅力11 士気 ─ 忠義14
・龍造寺家就 軍事18 政治 6 魅力10 士気14 忠義17
 松浦隆信  軍事11 政治 3 魅力 6 士気 ─ 忠義13
 
 政治は最低希望値の9に届かない者が多数で、特に徴兵で苦労するのが目に見えている。所有石高と知行の配分から武将数を減らしたくなるが、一族だったり四天王だったりと処分するのは心苦しい。
 
●外交
 大友家及び島津家と敵対し、同盟国は弱小の阿蘇家。豊後国への侵攻を阻む邪魔な位置だが、傘下に加わってくれる可能性が高いのでしばらくは見守っても悪くない。序盤の難敵となって立ちはだかる毛利家とは、意外にも友好関係で大変助かる。
 
 
■1575年 夏
 
 序盤は自領の守備と水軍力の強化を図り、相良家と阿蘇家を島津家に攻めさせてから海路より背後を強襲して一気に南九州を頂戴するつもりだったが、こちらの行動前に相良家が従順に降伏してきた為、思い直す。南九州への進出に要する手間が省けた上、政治への疎さには自信のある龍造寺家にとっては、相良家家臣の深水宗芳(軍4政16魅10)の存在がありがたい。ただ、水軍力は相変わらず0である。
 島津家は幸いにも相良家の吸収には興味が無いらしく、主力を伊東家への攻撃に回した為、こちらの救援活動は攻められない程度の守備兵を派遣するだけで済んだ。もう一つの防衛線となる佐嘉城(肥前)に残りの軍団を配置し、立花城(筑前)の大友家を牽制。そして、何よりも重要な毛利家との同盟交渉に、龍造寺家において最高の外交能力を誇る鍋島直茂を遣わす。1年程度の猶予はあるとは言え、手早く話が進めば良いが。
 
鍋島直茂「毛利家とは親善な間柄、同盟を結ぶ事に何の障害もありませぬ」
毛利輝元「この度の同盟の儀、真に祝着至極に存ずる」

 
■1575年 秋〜冬
 
 心強い味方となった毛利家が立花城に押し入り、龍造寺家を大友家の脅威から遠ざけると言う多大な援護を行ってくれた。これによって全軍団を島津家への攻撃に仕向けられ、即座に人吉城(肥後)に侵攻。人吉城を守備する敵軍の中には軍事・政治に優れた島津忠長の姿があり、落城した際には降伏してくる彼を是非とも配下に招き入れたかったが、残念ながら勢いに乗った鍋島直茂が討ち取ってしまった。事故なので仕方あるまい。
 人吉城には包囲に最低限必要な兵力を残し、更に一宇治城(薩摩)も攻めておく。島津家には抵抗する術無く、退却。
 
■1576年 春〜夏
 
 敗戦続きの島津家は内城(薩摩)に兵力69を集わせて龍造寺家への反撃の狼煙を上げるが、順番が後に回って来た利点を生かして一時撤退であしらう。人吉城と一宇治城を落城させて蒲生城(薩摩)に侵攻が完了、この調子で島津家とは野戦をせずに押し込んでいきたい。
 
・鈴木家が滅亡しました。
・宇都宮家が滅亡しました。
 
■1576年 秋
 
 薩摩国への進入が功を奏して頴娃久虎(軍17政8魅9)が仕官した代わりに、当初から挙動不審であった隅部親永が遂に島津家の元へ走った。偶然にもこの2人は名前の漢字が正確なのか怪しかったり、ゲーム中とパーフェクトデータブックで記述が違ったりする。戦況としては蒲生城を奪った代わりに一宇治城を奪い返されて、領地を確実に減少させているものの島津家に弱体化の様子は窺えない。
 
・畠山家貞政が滅亡しました。
 
■1576年 冬
 
 島津家は一宇治城から肥後国への突破を狙っている。そこで宇土城のレベルを21から更に上げて防壁を築こうとしたが、上限によりレベル23までしか強化出来ない。しかもその阿蘇家が、どこからも侵攻を受けていないのにも拘らず織田家に臣従。こんなことになるなら同盟なぞ無視して、速攻で滅亡させておくべきだった。ちなみに、相馬家・河野家・土持家も織田家に相次ぎ降伏している。
 織田家からの支援により阿蘇家の力が増すと厄介なので、こちらから隈本城(肥後)に出陣して存在を消しにいく。その際、家臣の甲斐宗運を倒してしまわないよう注意を払ったものの、部隊配置と順番の巡りが悪く大将の鍋島直茂が討ち取ってしまった。またお前か。
 
■1577年 春〜夏
 
 龍造寺家が織田家に牙を剥いた間に、島津家の全軍団が宇土城を包囲。これにより領地を北と南に分断されてしまったのが辛いが、そのお蔭で一宇治城と高山城(大隅)を楽して囲めることになった。
 中央の情勢に目を移すと、盟友の毛利家も山名家・一色家・三好家を自軍に招き入れ、蘆名家・長宗我部家が屈服した織田家と早くも刃を交えている。善戦していると思わせておいて退路遮断を食らい、瞬く間に抵抗の芽を摘まれることも多いシナリオ2の毛利家だが、今回はどうなるか。
 
・七里頼周が本願寺家の家督を相続します。
・外様大名の千葉家が滅亡しました。
 
■1577年 秋
 
 島津軍の兵力72から2度の兵糧攻めを受けた宇土城は、レベル1で何とか持ち堪えた。周囲の城に逃げ場を許さず、ここで野戦を仕掛けて勝利すれば島津家が滅亡する形が出来上がっている。引導を渡すべき時が来た。
 
深水宗芳「多方面からの侵攻も、必要かと存じます」
龍造寺隆信「時を移さず攻め勝つべし!」

 
 南九州でかき集めた兵力68に加えて、肥前国からも海を渡って兵力22の応援が到着し、島津家との決戦が響原に開始。均衡した兵力が衝突する中、大将部隊への集中攻撃を浴びせる龍造寺家に対し、島津家は戦力の半分を無駄に遊ばせてしまう。島津義久が先陣を切ったのは勇敢ではあったが、迂闊でもあった。
 宇土城から降伏の島津歳久(軍16政11魅12)が配下に加入し、隈本城の包囲が終了。
 
・外様大名の土持家が滅亡しました。
・外様大名の佐野家が滅亡しました。
・外様大名の荒木家が滅亡しました。
・島津家が滅亡しました。
・別所家が滅亡しました。
・外様大名の阿蘇家が滅亡しました。
・外様大名の尼子家が滅亡しました。
 
■1577年 冬
 
 石高が99万石となり、初官位の筑後守護を叙任。島津家亡きあとの標的は、遺領配分で大隅国を獲得した伊東家と、毛利家が序盤から織田家と開戦したせいか未だに元気を保つ大友家。優先して相手にすべきは後者であり、無防備だった大友家の府内城(豊後)に力攻めを行い、一気に落とす。大友家の大名直轄領が24万石しか無く、豊後国は城当たりの石高が高い為、犠牲になった兵よりも見返りの方が大きいだろう。
 
・外様大名の長宗我部家が滅亡しました。
・浦上家が滅亡しました。
・十河家が滅亡しました。
 
■1578年 春〜夏
 
 こちらの目論見通り、大友宗麟の直轄領は10万石まで低下。総兵は127もいるので油断禁物とは言え、唐突に野戦を仕掛けられたとしても戦い易くはなった。朗報は続き、府内城の龍造寺軍に反応して臼杵城(豊後)に配置された大友家の主力が、四国へ上陸する道を選択。二度と九州には戻すまい。また、薩摩国から山田有信(軍19政2魅5)、肥前国から木下昌直(軍11政10魅8)が登場し、人材の補強が着々と進められている。
 
・外様大名の松永家が滅亡しました。
・外様大名の河野家が滅亡しました。
・波多野家が滅亡しました。
 
■1578年 秋〜冬
 
 大友家の主力が去ったことで九州地方に残る敵が僅かになり、毛利家との関係を清算させるよう働き掛ける頃合である。そこで豊前国に残る少数の大友軍はわざと取り置いて、矛先を伊東家に変更。追い詰められた大友家の振る舞いによっては、毛利家との同盟が平和裡に解消されるかもしれない。
 
・里見義弘が享年49、里見勝政が家督を相続します。
・上杉謙信が享年49、上杉景虎が家督を相続します。
・武田家が滅亡しました。
 
■1579年 春
 
 龍造寺政家(軍9政8魅7)が元服。四国地方に渡った大友軍は土佐国に落ち延びようとするが、大名もろとも木っ端微塵に砕かれた。
 
・宇喜多家が滅亡しました。
・波川清宗が大友家の家督を相続します。
・伊東家が滅亡しました。
 
■1579年 夏〜冬
 
 13万石・兵力7で周囲を毛利家に取り囲まれた豊前国の波川家に、慈悲深い龍造寺隆信は降伏を勧告。水軍力目当て、とも言う。
 
鍋島直茂「膝を屈して、降伏して参るでしょう」
波川清宗「家名存続のためには是非もなし‥‥」

 
 これによって獲得した水軍力46は、金9200に相当するのだから大きい。西方面の敵を失った毛利家の今後の動向が気になるが、どうやら龍造寺家との親善な関係を継続したいようで、全軍団を織田家に仕向けた。龍造寺家が国境を接する勢力はその毛利家だけであり、秋と冬を休暇に当てて所持金の増加を目指す。また、左京大夫に出世した。
 
・外様大名の畠山家義隆が滅亡しました。
・七里家が滅亡しました。
 
■1580年 春
 
 開始から5年経過した龍造寺家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高205 兵力257 水軍力46 所持金10800
 
 織田家の九州地方への介入を最小限に抑え、順調に領地を拡大中。問題は収入が必要経費に全然追い付かないことで、今の貯金も水軍力の強化に注がなければならないのが厳しい。ちなみに運の良いことに、ここまで一度も台風と飢饉のイベントに直撃されていない。ただでさえ知行の捻出に困っているのだから、九州地方に発生した瞬間にリロード必至だった。
 
●武将
・龍造寺隆信 知行21 兵数40 忠義 ─
 大村純忠  知行13 兵数21 忠義23
 木下昌直  知行 0 兵数 1 忠義19
 赤星統家  知行 0 兵数 1 忠義 1
・龍造寺信周 知行21 兵数15 忠義25
 龍造寺政家 知行 0 兵数 1 忠義22
・成松信勝  知行 5 兵数 6 忠義25
・鍋島直茂  知行21 兵数33 忠義22
 穎娃久虎  知行 2 兵数 3 忠義25
 島津歳久  知行 2 兵数 2 忠義19
 山田有信  知行 3 兵数 5 忠義22
・百武賢兼  知行21 兵数16 忠義25
・円城寺信胤 知行21 兵数23 忠義25
・龍造寺長信 知行15 兵数10 忠義25
・龍造寺家就 知行15 兵数26 忠義25
・相良義陽  知行15 兵数25 忠義23
 深水宗芳  知行15 兵数22 忠義25
・波川清宗  知行13 兵数 7 忠義15
 
 武将数に石高が釣り合っていないのは仕方無いにしろ、基本中の基本である兵力の集中に失敗しているのは如何なものか。
 
●大名家
・北条家 石高221 兵力260 敵対:徳川 織田
・上杉家 石高137 兵力 62 敵対:織田
・徳川家 石高 74 兵力 87 敵対:北条
・織田家 石高832 兵力979 敵対:北条 毛利
・毛利家 石高244 兵力332 敵対:織田
 
 他に生き残っているのは、奥州地方に幾つかの弱小勢力のみ。松永久秀と荒木村重が謀反を起こさず寝返りに止まった割に、織田家の成長速度は遅い。北条家と上杉家、徳川家と織田家の同盟は現在も維持。毛利家と龍造寺家もまた然りだが、これは手切れが目前に迫っている。
 
 
 ここで貯金をはたいて水軍力を最大値まで上げ終え、東進に必要な戦備が整った。しかし、毛利家との国交を断絶しようとした瞬間、木下昌直から激しく異議を唱えられてしまう。
 
木下昌直
 
「毛利家との同盟を反古にするつもりでござるか!」
「毛利輝元も命拾いしましたな‥‥」

 その勢いに一度は思わず躊躇するも、この選択を断行する他に道は無いのも明白。
 
龍造寺隆信「今より盟友毛利輝元は敵となった!」
 
 22から16まで急落した鍋島直茂を筆頭に、重臣と外様大名の忠義が大幅に低下。ただ、忠誠の意志を失う境界線の15を割ったのは軍門に下ったばかりの波川清宗だけなので、大した問題にはならない。しかし、家臣団に立ち込めた不穏な空気を払いのける為、こやつはいずれ打ち首に処そう。
 初手の攻撃目標は九州地方に唯一残る敵城の立花城と、水路を挟んだ勝山城(長門)。後者の侵攻で発生した水軍戦の結果は以下の通り。
 
勢力毛利家龍造寺家
水軍力100100
1ターン15+4
2ターン11+315
3ターン12
4ターン114+9
5ターン11+11
6ターン3+4
7ターン2+12
8ターン
結果33
 
 急造の水軍では歯が立たず、貴重な財産が海の藻屑となった。
 
■1580年 夏
 
 中国地方上陸に再挑戦。
 
勢力毛利家龍造寺家
水軍力7261
1ターン11+38+6
2ターン14+1313
3ターン11+3
4ターン9+10
結果31
 
 肥前の熊も海の上ではただの人なのか、連続して惨敗。立花城が落ちて九州地方の完全掌握を成したが喜べない。
 
■1580年 秋〜冬
 
 冷静に近隣の状況を観察すると、織田家が毛利家を押しのけて安芸国・土佐国まで進軍しており、このまま中国地方でかち合っては元も子も無い。そこで三度の水軍戦を仕掛ける前に予め同盟を申し入れることにしたが、かつて織田家傘下の阿蘇家を滅ぼしてしまった事実が重く伸し掛かる。そんな龍造寺家の白々しい外交姿勢に、織田信長はどのような反応を見せるだろうか。
 
鍋島直茂「龍造寺存続のため、全力を尽くしまする」
織田信長「龍造寺殿のご武運を、お祈りいたしますぞ」

 
 流石は天下人に一番近い人物、度量が広い。これで毛利家の領地を奪い取る作業から憂いが消えた。お次は水軍戦。
 
勢力龍造寺家毛利家
水軍力7657
1ターン2+135+2
2ターン1+119+12
3ターン101+9
4ターン
5ターン11+6
結果32
 
 都合20000の金を注ぎ込んで厚い壁の毛利水軍をようやく突破するに至り、待望の本州上陸を果たした。
 
・最上家が滅亡しました。
 
■1581年 春〜夏
 
 勝山城を中国地方攻略の拠点として、小石見城(石見)と亀尾城(長門)に相次ぎ侵攻。龍造寺軍と織田軍に完全に挟まれて大打撃を食らった毛利家は、戦死した毛利輝元の跡を継いだ吉川元春が伊予国から豊後国を急襲、唯一無二の役目を勤め上げて隙だらけとなっていた龍造寺水軍を軽く蹴散らし、臼杵城を乗っ取られてしまった。
 その豊後国からは事前に、高橋紹雲(軍21政6魅14)が登場済。仕官が一歩でも遅れていれば、この豪傑を毛利家に横取りされていたかもしれない。
 
・伊達家が滅亡しました。
・外様大名の山名家が滅亡しました。
・外様大名の三好家が滅亡しました。
・吉川元春が毛利家の家督を相続します。
 
■1581年 秋〜冬
 
 所有石高が1000万石を超えた織田信長が、朝廷より征夷大将軍を叙任。規模も職名も左京大夫ごときが敵対出来る相手ではないが、その征夷大将軍から相当な圧力に晒されている安東家・葛西家・南部家から続々と進物が届けられた。奥州勢には織田家の対抗馬として認められているらしい。
 豊後国の支配権を取り返しつつ、郡山城(安芸)や月山富田城(出雲)を新たな標的とする。
 
・吉川元長が吉川家の家督を相続します。
 
■1582年 春
 
 毛利家の残党が全滅間際となるも、未だ上杉家・北条家が健在な為か織田家からは同盟を反故にするような怪しい様子は窺えない。故に仕方無く、こちらから破棄する。
 
龍造寺隆信「敵は織田信長ぞ!」
 
 2回目ともなれば配下も慣れたもので、忠義はほとんど下がらなかった。
 
・外様大名の一色家が滅亡しました。
・繁沢元氏が吉川家の家督を相続します。
・小野寺家が滅亡しました。
・繁沢家が滅亡しました。
 
■1582年 夏
 
 織田家1173万石・兵力1247に、龍造寺家369万石・兵力504が躍り掛かる。圧倒的有利な織田家だが、北条家の城の包囲に大部分の軍団を割いていた為、西日本には合計400強の兵力しか動員出来ない。これ幸いと龍造寺軍は、手始めに高松の戦いで斎藤利三・細川藤孝を降伏させた。武将2・兵力71の戦果。
 
■1582年 秋
 
 西日本の情勢の変化を敏感に察知したのは、僅かな手勢で越後国で巧みに生き残る上杉家で、突然に龍造寺家への降伏を願い出てきた。上杉家の旧領が切り取られて大名直轄領が圧迫されたり、合戦フェイズが無駄に延びる可能性がある等の現実問題に受け入れるべきか迷うが、織田家に吸収されてしまうよりは幾分良いかとの結論に達して決断。上杉家が外様大名として、龍造寺家の傘下に加わる。石高86万石・兵力105の戦力に、陣容は上杉景虎・吉江資堅・上杉景勝で、シナリオ2において上杉景勝が無事なのは珍しい光景かもしれない。
 東日本の自領を守り抜くには協力が欠かせないだろうと、北条家に同盟を求める。
 
上杉景勝「殿のお考えの次第にございまする」
北条氏政「重臣と相談の上、ご返事申すゆえ、しばらくお待ちいただきたい」

 
 この返答の台詞を初めて読んだ時、しばらく待てば本当に返事が来るのだと素直に信じたのは私だけだろうか。ちなみに経験則として、シナリオ3の北条家とは同盟は成立しないと思われる。
 
・外様大名の波川家が滅亡しました。
 
■1582年 冬
 
 この年に豊後国から登場するはずの立花宗茂(軍22政10魅18)の姿が見えず、迎え入れる為に何度もリロード。最終的には仕官してくれたが、この仕様には少々うんざり。
 西日本から東に向かう前線は播磨国まで進む。東日本では北条家の煮え切らない態度にやきもきさせられるも、旧上杉領の沼田城(上野)に居座ることで織田家との睨み合いを継続中。箕輪城(上野)と河越城(武蔵)に陣取る織田軍は総兵で沼田城の守備兵を上回っているが、なぜか攻める気が起きないらしい。
 
・相良義陽が死去、相良忠房が家督を相続します。
 
■1583年 春〜夏
 
 織田家に臣従した奥州勢に征伐されかかっている南部家から、九州探題となった龍造寺家への降伏と引き替えに救援要請が届けられる。乗り掛かった船なので応じてやることにするが、南部家11万石・兵力22に対して兵力53の征伐隊が目前に迫っており、助ける猶予は1ターンしか無い。そこで南部晴政・南部信直・南部信愛に知行を24万石ずつ割り当て、兵力を45まで補充して凌ぐことにする。貴重な直轄領が臨時支出でまた減った。
 一方、主戦場では播磨国や出雲国で一進一退の攻防を繰り返していたが、織田軍の武将4・兵力160の軍団を全滅させ、軍団長だった織田信忠の身を強引に引き寄せることに成功。これで恐らく、織田一族からまともな跡継ぎは消え去っただろう。
 
■1583年 秋〜冬
 
 江上家種(軍15政6魅13)が元服し、十分な徴兵を済ませた南部軍を反撃に転じさせる。織田家は近畿地方での主力同士の正面衝突を避けるかのように四国地方に軍団を散りばめ、所有石高が思うように増加していない敵の状況を見破っているのか、海を渡って空城の岡山城(美作)や草津城(安芸)を攻め立て始める。これによって発生した水軍戦により、1583年の冬は龍造寺水軍の壊滅記念日となった。
 そんな城やら石高やら水軍やら等の様々な犠牲に、更に島津歳久の戦死と言う取り返し不可能な重大な損失まで上乗せした結果、尼崎城(摂津)にて宿敵の息の根が止まった。織田信長、切腹。
 
・津田信澄が織田家の家督を相続します。
 
■1584年 春〜冬
 
 津田家1248万石・武将30・兵力643に対して、龍造寺家544万石・武将26・兵力478となった。無能な大名がどのようにして大勢力を纏め上げるのか、お手並み拝見と言ったところ。龍造寺家は依然不利な状況に変わりなく、出来れば内部崩壊に期待したい。
 奥州地方の南部軍は「南部信愛殿、討ち死に!」の悲報にもめげず仙台城(北陸奥)まで南下するが、肝心の本隊はと言えば野戦に次ぐ野戦で疲労しており、守備に重点を置いた1年とする…はずだった。しかし、交戦意欲の高い津田家が「どうぞご自由に葬って下さい」と言わんばかりに兵を配備させてくる為、その都度無理やりにでも侵攻を敢行して敵を全滅させていき、ほとんどの軍団は満身創痍の状態に陥ってしまう。そしてこの冬、九州地方の中堅勢力から西日本の強豪勢力へ成長を遂げた龍造寺家を見届け、成松信勝が天寿を全う。
 
・外様大名の蘆名家が滅亡しました。
・安東家が滅亡しました。
・里見勝政が死去、里見家が滅亡しました。
 
■1585年 春〜夏
 
 開始から10年経過した龍造寺家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高543 兵力597 水軍力4 所持金31
 
 5年間で石高・兵力が倍以上になったものの、相変わらず大名直轄領に余裕が無く、水軍力と所持金は言わずもがな。上杉家や南部家を助けようと優遇し過ぎたのが原因であるが、捨て石として割り切って使うのはなかなかどうして難しい。
 
●武将
・龍造寺隆信 知行31 兵数28 忠義 ─
 大村純忠  知行21 兵数22 忠義22
 江上家種  知行21 兵数14 忠義25
 後藤家信  知行 9 兵数 5 忠義19
 鍋島勝茂  知行 1 兵数 1 忠義21
・龍造寺信周 知行24 兵数27 忠義15
・鍋島直茂  知行24 兵数40 忠義20
 穎娃久虎  知行21 兵数20 忠義25
 山田有信  知行21 兵数32 忠義25
 福島正則  知行15 兵数13 忠義16
・百武賢兼  知行21 兵数13 忠義23
・円城寺信胤 知行21 兵数36 忠義25
 延沢満延  知行 2 兵数 4 忠義12
・龍造寺長信 知行21 兵数27 忠義25
・龍造寺家就 知行24 兵数25 忠義25
・高橋紹雲  知行21 兵数21 忠義25
 龍造寺政家 知行21 兵数13 忠義25
 織田信忠  知行21 兵数17 忠義25
・立花宗茂  知行21 兵数16 忠義25
 大崎義隆  知行 3 兵数 1 忠義12
・相良忠房  知行23 兵数23 忠義22
 深水宗芳  知行21 兵数29 忠義17
・上杉景虎  知行44 兵数40 忠義18
 吉江資堅  知行21 兵数40 忠義25
 上杉景勝  知行21 兵数40 忠義25
・南部晴政  知行24 兵数21 忠義18
 原田直政  知行 0 兵数 1 忠義23
 南部信直  知行24 兵数28 忠義25
 
 後藤家信(軍4政8魅10)は昨冬、鍋島勝茂(軍14政2魅10)は今春に元服。毛利家・織田家と立て続けに同盟を破棄したせいか、5年前から加増が滞り気味のせいか、一部の忠義に減少が見られる。戦況が幾分落ち着いてきたので、そろそろ対処出来る予定。尚、木下昌直はかの暴言を最後に消息不明で、人知れず歴史から姿を消している。口は災いの元。
 
●大名家
・北条家 石高  82 兵力111 敵対:徳川 津田
・徳川家 石高 124 兵力181 敵対:北条
・津田家 石高1217 兵力487 敵対:北条 龍造寺
 
 退路遮断で大兵団を失った訳でもないのに津田家が急速に落ちぶれたのは、兵力の運用が下手だったことが原因。沼田城の上杉軍に気を取られたり北条家の城に大軍で押し掛けたりしている内に、徴兵もままならない龍造寺家に各個撃破され続ける体たらくで、軍事12・政治3・魅力1の凡人大名に立て直しが勤まるのだろうか。
 
 
 現段階における攻撃の矛先は、石山本願寺(摂津)や勝龍寺城(山城)。このところ軍備・政略フェイズの順番が津田家より先ばかりで、軍団配置の段階で有利になれない。もし逆になれば必要最低限の兵力を前線に残し、好き放題に空城攻めが出来るのだが。
 他に、長らくその場で敵軍と睨み合っていた沼田城の上杉軍がとうとう攻められ越後国に撤退するも、これは大雪による退路遮断の心配がなくなるので好都合だった。北条家との国境も消えて手持ち無沙汰となった上杉軍は、人っ子一人いない越中国に突入させておく。
 
■1585年 秋〜冬
 
 久し振りに順番が後になり前述の目論みを実行、奪い返されたまま放置していた安芸国や出雲国を再度平定し、失った石高を取り戻していった。戦の数に比例して支出も減ったことから褒美まで与えられるようになり、全体の歯車が良い方向に回り出した感触がする。
 その歯車の勢いは龍造寺家の内部から、外部にも波及したらしい。転がり落ちてゆくばかりの津田家を無情にも見限ったのか、切り取られてゆく自領を補う手段を徳川家に見つけたのか、固く同盟が結ばれていたはずの津田家と徳川家が憎しみ合う仲になった。
 
・南部晴政が死去、南部信直が家督を相続します。
・外様大名の葛西家が滅亡しました。
 
■1586年 春〜冬
 
 図らずも津田信澄の率いる軍団を四国地方に閉じ込めるが、こちらから成敗に赴くとなると水軍戦が億劫なのと、その無能さ故に代替わりさせる価値も無く、適当な頃合にわざと向こう岸から攻めさせることにした。その後もこつこつと津田家の空城を包囲していき、因幡国・越中国・北陸奥国・大和国等を支配完了。この辺りは遺領配分で不利となる西日本の勢力特有の手間で、どうしても間延びした展開になってしまう。また、朝廷より大納言を叙任。
 遠く関東地方に目を移せば徳川家に勢いがあり、ここまで懸命に家名を存続させてきた北条家も逃げ場の無い館山城(上総)に追い込まれ、滅亡も時間の問題となっている。北条氏政が龍造寺家と手を結ぶ選択さえしていれば、こんな末路にはならなかったかもしれない。
 
・外様大名の相馬家が滅亡しました。
 
■1587年 春〜夏
 
 先手となった春には堺城(和泉)をレベル21に普請しつつ大軍勢を集結させ、後手となった夏には四国地方に取り残された武将9・兵力232の津田軍を対岸の勝瑞城(阿波)に誘い出すことに成功。ここで堺城から全ての城兵を撤退させ、津田信澄を意図的に本州に引き戻した。また亀山城(丹波)では武将3・兵力120を、坂本城(山城)では武将4・兵力157を鼠一匹残さぬよう全滅させる。
 
・北条家が滅亡しました。
 
■1587年 秋
 
 堺城を包囲中の津田軍と戦うに当たり注意すべきは、中途半端に勝利して潰走させてしまわないようこと。水軍戦を嫌って陸地へ誘き寄せたのに再び四国地方に帰られては元の木阿弥なので、必ず野戦で部隊を全滅させて9人の武将全員を討ち取らなければならない。
 幸いだったのは、大将となる津田信澄の士気値が20と非常に高い点。これが15以下だったなら、どんなに小細工を駆使しても思惑通りの結果を導くのは難しかっただろう。龍造寺軍は盾役となる武将7人を含めた武将17・兵力402を編成して堺城に乱入、敵軍を一人一人丁重に扱い相手の士気を調整しつつ、壊滅させた。
 
・真田幸村が津田家の家督を相続します。
 
■1587年 冬
 
 旧織田家を887万石・兵力65まで没落させて事実上の天下布武を成し遂げた龍造寺家は、大仕事を終えた安堵感からか緊張の糸が切れてしまった。百武賢兼、死去。高橋紹雲、死去。そして龍造寺隆信、死去。
 跡継ぎ候補の一族は、龍造寺家就・龍造寺信周・鍋島直茂・龍造寺長信・龍造寺政家・江上家種・後藤家信・鍋島勝茂。史実に乗っ取る人もいれば血脈に拘る人もいる中で、極めて利己的に大名として相応しい能力を優先とし、一族の中で最も才に長ける鍋島直茂に相続した。家臣団の忠義はほとんど保たれ、鍋島家は龍造寺家の築き上げた結束を受け継いでゆく。この冬は喪に服す体で、他家への侵攻を自重。
 
・龍造寺隆信が享年59、鍋島直茂が家督を相続します。
 
■1588年 春
 
 不幸は連鎖するもので、1582年に相良義陽の跡を継いだばかりの相良忠房まで死去。外様大名に与えた土地は没しても返還されず、更に跡を継いだ相良長毎の知行は63万石まで上乗せされた。譜代の重臣すら30万石程度で我慢しているのに、けしからん奴である。
 鍋島軍は美濃国から北陸地方に伸びる街道を封鎖し、尾張国に真田家狩りを開始。
 
・相良忠房が死去、相良長毎が家督を相続します。
 
■1588年 夏
 
 奥州地方の旧織田領をこつこつと切り崩していた南部軍が南陸奥国を統一し、龍造寺家の一員として東日本で共に奮闘した上杉軍との初顔合わせが行われようとしていた直前に、突然の知らせが舞い込む。今まで地味な存在でしかなかった徳川家が三倍の領地を有する真田家の脅迫に成功、ここに所有石高1052万石の三河守護が誕生した。
 獲物を横取りされた鍋島家は敵意を露にして徳川領へ傾れ込み、瞬く間に徳川家康その他大勢を討ち取った。膨大な石高を手にしたところで兵力は所詮200程度しかなく、徳川家は然したる抵抗も出来ない。
 
・榊原康政が徳川家の家督を相続します。
・外様大名の真田家が滅亡しました。
 
■1588年 秋
 
 秋の開始時には榊原家は武将3・兵力82まで弱体化させており、終了時には武将1・兵力1を兼山城(美濃)に包囲するに至った。
 
・田中吉政が榊原家の家督を相続します。
 
■1588年 冬
 
 天下統一を間近に控えた鍋島家の状況。
 
●戦力
・石高1014 兵力728 水軍力2 所持金35720
 
 最後の最後で石高が大台を突破したものの、大納言から征夷大将軍にはなれず。そこで幕が下りる前に朝廷工作で一花咲かせようと企んだところ、
 
龍造寺信周「おやめくだされ、天下に大恥をさらすだけにござる!」
 
 と叱られてしまい、後ろ髪引かれる思いで諦めた。強行しても失敗するのがオチだっただろう。
 
●武将
・鍋島直茂  知行339 兵数34 忠義 ─
 穎娃久虎  知行 30 兵数26 忠義25
 山田有信  知行 30 兵数24 忠義25
・龍造寺信周 知行 40 兵数40 忠義20
 龍造寺政家 知行 30 兵数40 忠義25
 後藤家信  知行 30 兵数40 忠義25
・江上家種  知行 33 兵数40 忠義25
 大村純忠  知行 30 兵数40 忠義18
 鍋島勝茂  知行 30 兵数40 忠義25
・円城寺信胤 知行 40 兵数40 忠義25
・龍造寺長信 知行 36 兵数40 忠義25
・龍造寺家就 知行 40 兵数40 忠義25
・立花宗茂  知行 36 兵数40 忠義25
 織田信忠  知行 30 兵数40 忠義25
 福島正則  知行 30 兵数40 忠義25
・相良長毎  知行 63 兵数40 忠義21
 深水宗芳  知行 30 兵数40 忠義22
・上杉景虎  知行 44 兵数30 忠義25
 上杉景勝  知行 24 兵数25 忠義25
・南部信直  知行 48 兵数29 忠義25
 
 龍造寺隆信を代表に数人の武将が志半ばで逝ってしまったが、優秀な面子が終始揃っていた。序盤から元服する一族が多過ぎてとても面倒を見てられないと言う、他家すれば贅沢な悩みもあった。重臣よりも外様大名を厚遇する少々いびつな状態になってしまったのは、終盤になって石高や所持金に大きな余裕が出てきたのに、それを配下に回す余裕をプレイヤーが持っていなかったのが原因。プレイ時間を僅かでも短くする苦肉の策だった。
 
 
 合戦フェイズにて田中吉政、切腹。1588年の北近江国に登場のこの武将は、仕官先を誤ったせいでとんだとばっちりを食ってしまった。気の毒に。
 
・田中家が滅亡しました。
 
 
1588年 冬
 
鍋島直茂は天下人となった。

 
■あとがき
 
 織田家の肥大化が許容範囲に収まったことから、良く言えば順風満帆、悪く言えば緊張感に乏しい展開になりました。1582年前後には日本の片隅まで行き着く普段の勢いはどこへやら、今回は東にも西にも攻めきれないままプレイヤーとの戦いが始まり、軍団を各所に分散せざるを得ない隙を突かれて各個撃破されています。そのお蔭でリロードに頼る局面も無かったものの所要ターンは延びてしまい、龍造寺隆信の寿命に間に合わなかったのが残念です。片側の制圧を他勢力に任せて最終決戦に挑む方が早く終わるのは、どのシナリオにも共通して言えることですね。
 織田家が不利を被った理由は、CPU勢力の頑張りでしょう。上杉家・北条家・毛利家は織田領を侵食はせずとも境界線上で互角に渡り合ってくれましたし、奥州地方の弱小勢力が安易な降伏をせずに手強い別動隊が組織されることもありませんでした。いつもならすぐに織田家の軍門に下ってしまう大友家が、織田家の外様大名だった土持家を攻めてしまったのが原因なのか独立を維持し、これによって九州地方における龍造寺家の領土拡大作業が安泰となったのは特に大きいです。展開のみならず天災や外交にも恵まれ、台風と飢饉が九州地方に直撃したのは終盤まで1回ずつ。序盤で必須の毛利家との同盟に、中盤で命綱となる織田家との同盟に、序盤に大量の水軍力をせしめられた波川家への脅迫に、これらの交渉を一身に請け負って全てを一度で成功させた鍋島直茂に、最優秀武将賞を与えます。
 
 
 
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