■天下布武 徳川家リプレイ
 
 大名:S 戦力:D 配下:A 地利:B 難易度:上級
 
●戦力
・石高35 兵力65 所持金1500
 
 波多野家や河野家と並ぶ小さな規模だが、その他の恵まれた境遇から軌道に乗るまでの必要期間が短い為、根気や運は案外試されない。
 
●武将
・徳川家康  軍事19 政治17 魅力18 士気20 忠義 ─
 高力清長  軍事 5 政治12 魅力13 士気 ─ 忠義17
 鳥居元忠  軍事16 政治 4 魅力 9 士気 ─ 忠義23
 徳川信康  軍事17 政治 9 魅力15 士気 ─ 忠義13
・本多忠勝  軍事20 政治 5 魅力13 士気16 忠義25
・酒井忠次  軍事14 政治11 魅力11 士気10 忠義17
・榊原康政  軍事16 政治 5 魅力 9 士気13 忠義17
・石川数正  軍事 8 政治15 魅力 9 士気13 忠義15
・奥平信昌  軍事15 政治 2 魅力14 士気10 忠義13
・大久保忠世 軍事13 政治 4 魅力14 士気12 忠義24
 内藤信成  軍事11 政治 6 魅力 8 士気 ─ 忠義16
・菅沼定盈  軍事11 政治11 魅力 5 士気13 忠義15
 石川家成  軍事10 政治 6 魅力 7 士気 ─ 忠義15
 
 徳川家の誇る強烈な軍事と結束力は、難度低下の一因になってくれる。この面子に井伊直政まで加わる予定で、皆に十分な知行を与えられる日はいつになるのやら。大名直轄領に余裕も無く、凡人は次々に首を切ってしまおう。あと、武田家の選択時には寝返りで得た徳川信康の寿命よりも早いクリアを狙うが、徳川家では無茶だろう。
 
●外交
 CPU担当でも終盤まで生き長らえるのは強国織田家からの庇護があってこそで、この関係を崩さなければ東方面に立ちはだかる武田家と北条家を貫くことも可能だ。ただ、その同盟が徳川家の天下統一にとって足枷に化けがちなのは否定出来ない。
 
 
 今回のリプレイは相対的に見て難易度の低い大名を選択した為、リロードを禁止して進行。以前のシナリオ3における蒲生家宇喜多家は「結果的にノーリロードでクリア」でしたので、自ずと慎重な立ち回りになるでしょう。
 
■1575年 夏
 
 まずは横にも縦にも狭き自領の中心、岡崎城(三河)に全員集合。僅かな徴兵とささやかな褒美を必要な者たちに執り行った後、鳴海城(尾張)の強奪を皮切りに盟友織田家と徹底交戦する道を歩き出した。
 
酒井忠次「織田家とは同盟を結んでおりますが‥‥」
 
 次のターンに織田家の方が先に動いた時の予防に、兵力8の酒井忠次による単独侵攻。鳴海城の耐久力は4しかないので、これでも確実に一度の兵糧攻めで落とせる。尚、この際の余計な忠義低下を抑えようと事前の重臣抜擢を見送り、既存の重臣の数値にも許容し難い変動は起こらなかったが、序盤だけに寝返りが発生したら最初から仕切り直すつもりで、リロード禁止による緊張感はまだ無い。
 
■1575年 秋
 
 シナリオ2の徳川家で織田家と敵対の戦略を採用した場合、早くも最大の山場を迎えるのが1575年の秋だろう。行動順が織田家より先に回ったことでその山を乗り越えられたと言え、ほっとしつつ酒井忠次を岡崎城に戻して休戦を内定させておく。また、今後も西への進路を取り続けるべく、新たな庇護を求めて北条家に流し目を使った。
 
徳川家康「北条と結ばねば我が徳川家が危うい」
北条氏政「両家の絆、ますます深まりましょう」

 
 調子良く事が進むので、武田家にも。
 
石川数正「殿のお考えの次第にございまする」
武田勝頼「徳川がふぜいが、何を申すか!」

 
■1575年 冬
 
 織田家が先で徳川家が後の理想的な行動順になり、目前の餌を逃さず無人の那古屋城(尾張)を包囲。全軍団で押し掛けては反撃を誘発する為、鳴海城の4倍もある堅さにも再度の酒井忠次で我慢した。
 
・千葉家が滅亡しました。
 
■1576年 春
 
 酒井忠次の隠密行動が成功し、那古屋城の危機に織田家は気付いていない。ここで夏の落城が一桁の兵力でも確定するよう、包囲人数を25まで上乗せして耐久度の減り幅を増やしておく。視線を東に移すと、北条家の遠江国進出が迫っていたので、武田軍の逃げ道を潰すべく高天神城(遠江)の包囲にも乗り出した。空っぽのはずの現場には北条軍に押し出されて武田軍の兵力4が入城していたものの、こちらは兵力62を動員しており影響は無い。
 
・鈴木家が滅亡しました。
・宇都宮家が滅亡しました。
 
■1576年 夏
 
 北条軍の侵攻に遭ったはずの掛川城(遠江)は、CPU特有の「攻城戦後に退却が出来る」で武田家の支配が維持されてしまい、高天神城の包囲に加えて長篠城(三河)の守備が必要に。ただし、織田家が遂に編成した那古屋城救援部隊が、これまたCPU特有の「城レベルが城内の兵数を上回る地点からの侵攻は珍しい」から身動きを取らず、天秤に掛けるとCPUの処理に助けられたか。
 
・畠山家義隆が滅亡しました。
 
■1576年 秋
 
 那古屋城を最終的に兵力5の攻撃で手中にした効果により、織田家からは降伏勧告があった割に実際の反応は兵力22・35と弱い。我々の兵力は100を超えており、高天神城の包囲を解かなくても彼らを全滅に至らしめるのは難しくなかった。清洲城(尾張)を包囲、小牧山城(尾張)を野戦と力攻めで落城させて池田恒興と原田直政が投降、長島城(伊勢)を野戦後に包囲の他、お荷物家臣の大久保忠世と内藤信成の命を絶てたのも戦果に挙げたい。北条家と武田家の順番と攻防が徳川家に不利な形として現れ、長篠城への敵流入を食い止められなかったのも甘んじて許す。
 
■1576年 冬
 
 服部半蔵(軍13政10魅3)が仕官。甲信地方に大雪が降らず美濃国から尾張国への反撃権が織田家に与えられたが、先手を打った小牧山城からの撤収に成功し、清洲城及び長島城の包囲軍を咎める輩も出なかった。長篠城を囲む武田軍の武将3・兵力18も迅速に討ち取れ、自分の筋書きに添う進行で年明けを迎える。
 
・畠山家貞政が滅亡しました。
 
■1577年 春
 
小山田信茂「徳川家康殿にお仕えしたく参上つかまつった」
 
 兵力7を携えての裏切り者は新規捨て駒候補。そこで使い潰し済の高力清長と菅沼定盈の存在意義を問い、力攻めで即刻処分。この時、美濃国の東端にいる織田軍を孤立させる機会を得ていたが、他家同士の主力交戦地点が減るのは頂けないので見逃し。また、高天神城と長島城の攻城戦が当家の勝利で終了した。
 
・浦上家が滅亡しました。
 
■1577年 夏
 
 長島城は毎度の狡辛い手口で落としており、兵力3を見て桑名城(伊勢)にのこのこと出てきた武将4・兵力47を、後出しじゃんけん状態で容易に全滅。野戦前に試した島左近(軍18政5魅15)への引き抜き失敗を除けば左方では順調に事が進む反面、逆方向では頼みの北条家が件の掛川城を不思議と攻めあぐねており、いつまでも遠江国の2箇所に対武田の軍勢として総兵力の半分を割かねばならないのが困りもの。そこで悔し紛れに、島左近に提示した知行の倍程に当たる21万石を投じ、真田昌幸(軍17政18魅11)を釣り上げておいた。シナリオ2はどの大名で遊んでも、落城時に降伏してくれる彼が現れないと継続意欲半減だが、武将登場年とシナリオ開始季節の関係で出現率が3/4になるのが癌だ。
 
石川数正「手抜かりはございませぬ」
真田昌幸「喜んで徳川家康殿の家臣となりましょう」

 
・伊東家が滅亡しました。
・外様大名の山名家が滅亡しました。
・外様大名の松永家が滅亡しました。
 
 松永家は昨冬に謀反無しで一色家へ寝返っていた。このターンに荒木家も同じ形で上杉家の傘下に入り、織田家弱体化の有効札が2枚共に大きく作用せず切られたのは不安材料。明智光秀に託そう。
 
■1577年 秋
 
 徳川家に領地を侵食されながらも、織田家は400万石を突破した。その影響で相馬家・阿蘇家・土持家と辺境からの従属者が相次ぎ、組織肥大前に何とか痛打を与えられないか偵察すれば、春に孤立化を見逃した美濃国東端に織田信長を含む武将3・兵力64を発見。ここは跡継ぎの質が悲しい織田家の弱点を突くべく、無防備な大垣城(美濃)と岐阜城(美濃)をごく僅かな人数で取り囲んでおく。
 
・安東家が滅亡しました。
・本願寺家が滅亡しました。
・佐竹家が滅亡しました。
 
■1577年 冬
 
 井伊直政が世に出ない不運に士気が減退したが、より高価値の羽柴秀長(軍14政18魅21)は登場。織田家に見捨てられた桑名城からも、蒲生氏郷(軍16政10魅13)と一度は振られた島左近が仲間入りし、人材の豊富さでは天下一かもしれない。昨年同様に甲信地方の天候が荒れなかったので大垣城の平穏を保証されなかったものの、隣接城に待機する兵力60と対等の人数を現地に遣わせる余裕はあり、織田家の出動は抑えられた。これで石高は優に三桁の大台へと乗ったはず。
 
・三好家が滅亡しました。
・外様大名の香川家が滅亡しました。
 
■1578年 春
 
 地盤の東海地方を飢饉に襲われ、桑名城から得た土地分が丸々吹き飛ぶ。落城近付く大垣城にも大軍が押し寄せる気配が生じ、事前に返却して差し上げた。しかしながら、軍団のやり繰りが悩ましいのか織田領には隙が結構開いており、安濃津城(伊勢)と長光寺城(南近江)に新たな包囲軍を放つことが出来た
 
・波多野家が滅亡しました。
 
■1578年 夏
 
 兼ねてより北条家に管理を委ねていた掛川城は今の今まで武田勝頼が立派に守り通し、結局は当家の陰謀で信濃国に突入せざるを得なかった織田信長の格好の標的になり、ようやく籠城に至った。ここは武将8・兵力127の自軍主力を出陣させ、武将4・兵力76の敵軍本隊を全滅に導くのが当然の一着。ただ、勢い余って掛川城を落としたのは誤った判断で、地図上方から織田家のみならず上杉家の攻撃まで降り注ぐ恐れを生じさせてしまった。絶対に他家への降伏をしない武田勝頼を自刃に追い込んだのも、新織田家が旧武田家を吸収する手助けをしたようなもの。尚、織田軍が大挙押し寄せた長光寺城からは退去している。
 
・高坂昌信が武田家の家督を相続します。
・織田信忠が織田家の家督を相続します。
・外様大名の尼子家が滅亡しました。
 
■1578年 秋
 
 今度は天災も起こらず、遂に100万石に手が届いた。高坂家は予想通り織田家への従属を表明し、50万石弱を有する中堅勢力の宇喜多家もそれに倣う。甲信地方も予想通り上杉家が大部分を支配しており、現状を纏めると550万石の織田家と250万石の上杉家に取り囲まれたことに。そりゃ織田信忠からの降伏勧告も来るか。
 高遠城(信濃)に兵力175を控えさせ、越後の虎が牙を研ぐ。東海地方の死守は織田家への共闘に直結する重要課題で、岐阜城の包囲を止めてまで人手を掛川城に集結させてはみたが、一割下回る数値が限界。これでは敵意を思い止まらせるのに微妙であり、保険として今プレイで初の先攻めを仕掛けておく。幸いにも順番は徳川家が早く、藤沢口の戦いを雁行右の陣で一目散に退却を決定した時点までは良かったのに、山脈が大部分を占める戦場は初期配置で両軍の間隔が狭く、兵力9の本多忠勝が兵力18の敵騎馬に突進を受け、一気に力尽きる誤算が。最たる有能配下だけに、討ち死にしていたら続行は危うかった。
 
・吉川元春が毛利家の家督を相続します。
・長宗我部家が滅亡しました。
・外様大名の土持家が滅亡しました。
・外様大名の阿蘇家が滅亡しました。
 
■1578年 冬
 
 折良く上杉家に代替わりが起き、あちらさんの敵意は萎んだ様子。織田家からの圧力も皆無で各地の空城を拉ぎに行く好機だが、この場は前々から攻め立てていた安濃津城の獲得が確定していたので、要らぬ手出しは慎む。
 
・里見義弘が享年49、里見家が滅亡しました。
・上杉謙信が享年49、上杉景虎が家督を相続します。
・別所家が滅亡しました。
 
■1579年 春〜夏
 
 戦禍は伊勢国を抜けて五畿に移り、時を置かずに信貴山城(大和)にて門番的存在の武将2・兵力80を全滅及び包囲。この城内で死に瀕したのが他ならぬ当主だったせいか、速攻で兵力300と言う本気の織田軍が現れ、織田信忠の命に固執して大怪我を負っては莫迦らしいと事を荒立てずに引き下がった。こっそり再開済の美濃国の空城攻めが、十分なお返しになるだろう。
 
・外様大名の相馬家が滅亡しました。
・外様大名の高坂家が滅亡しました。
・十河家が滅亡しました。
 
■1579年 秋〜冬
 
 知行5万5千・忠義16の黒田官兵衛に、大名直轄領の全余剰分に当たる12万石で寝返りを仕掛けて断られる。桑名城と大垣城が確実に奪回される不利益を承知で、信貴山城にて武将6・兵力107の全滅を狙うも、大将の柴田勝家が騎馬主体で時間を稼げず通常の勝利に。大雪に埋もれた大垣城に忠義2の明智光秀が単独配置だったのに、謀反無し。順番の遅さを利用して一時撤退の戦法を用い、徴兵と攻城戦の掛け持ちで桑名城を取り返したものの、信貴山城からは追い出された。
 
■1580年 春〜夏
 
 開始から5年経過した徳川家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高126 兵力202 所持金27
 
 煮え切らない態度の北条家に足を引っ張られて織田領に突破口を抉じ開けられず、成長が停滞気味。最近はご都合主義的な対処に忙しく、他家に上手く操られてしまっている。
 
●武将
・徳川家康 知行23 兵数37 忠義 ─
 毛利秀頼 知行 0 兵数 1 忠義17
・本多忠勝 知行15 兵数15 忠義25
・酒井忠次 知行18 兵数25 忠義25
・榊原康政 知行 2 兵数 5 忠義25
・石川数正 知行18 兵数32 忠義20
・奥平信昌 知行 2 兵数 5 忠義22
・原田直政 知行 0 兵数 1 忠義16
・徳川信康 知行 6 兵数12 忠義22
 島左近  知行 1 兵数 3 忠義22
 蒲生氏郷 知行 1 兵数 3 忠義21
 鳥居元忠 知行 2 兵数 4 忠義25
 服部半蔵 知行 2 兵数 4 忠義22
・真田昌幸 知行18 兵数35 忠義23
・羽柴秀長 知行15 兵数20 忠義25
 
 体力勝負になると不利な立場故に徒な野戦は避けたく、合戦以外では無用の長物になる軍事よりも実数重視で知行を配分してきた。開幕から名を連ねる落第生たちは抹消し終えたが、妙に原田直政がしぶとい。
 
●大名家
・北条家  石高267 兵力392 敵対:上杉
・織田家  石高604 兵力835 敵対:徳川・吉川
・上杉家  石高229 兵力314 敵対:北条
・吉川家  石高148 兵力225 敵対:織田・大友
・大友家  石高115 兵力 85 敵対:吉川・龍造寺・島津
・龍造寺家 石高 79 兵力120 敵対:大友
・島津家  石高 81 兵力100 敵対:大友
 
 他に生き残るは奥州地方の葛西家・南部家・伊達家。大友家が香川信景の謀反を受け入れたことと、伊達家が小野寺家を屈服させたことで両者の降伏が不可能になり、北と南に織田家の別動隊が組織されなかったのは歓迎である。徳川家と北条家の同盟に亀裂は認められない反面、肝心要の上杉家と北条家が早い段階で内輪揉めを始めて終わりそうもないのと、西日本での小競り合いに決着が見えないのが悩みで、弱者が団結して織田包囲網を構築するには程遠い現状だ。
 
 
 何が徳川家の見込み違いかと言えば、織田家に面と向かって対抗する勢力が少ないことが挙げられるので、春に早く回った順番を利用して上杉家に刺激剤を投与してみる。具体的には、掛川城に全軍団を移動させて織田家との休戦を作り上げると同時に、上杉家との以前からの休戦を放棄しただけ。あとは徳川軍への牽制に高遠城へ兵力85の上杉軍が呼び込まれ、上杉軍の牽制に岩村城(美濃)へ兵力135の織田軍が呼び込まれの連鎖で、夏の終わりまでに本格的な開戦が誘発された。
 
■1580年 秋〜冬
 
 高遠城が舞台の騒ぎには加わらず、人気の消えた美濃国・南近江国・大和国の城を広く浅く攻めておく。季節が変わり、包囲の継続不可が歴然だった大和国からはさっと手を引き、兼山城(美濃)に佇む武将5・兵力134の全滅を達成すべく一目散で赴くも、黒田官兵衛から大戦果を貰って真田昌幸の兵力が1まで減る事故に遭い、止む無く通常の勝利で妥協した。尚、今回も大将はあの柴田勝家で、対徳川軍に2戦2敗ながら最悪の結果を防ぐ手腕には長けているようだ。
 
・外様大名の最上家が滅亡しました。
・外様大名の小野寺家が滅亡しました。
・小梁川盛宗が伊達家の家督を相続します。
・外様大名の宇喜多家が滅亡しました。
・小早川隆景が吉川家の家督を相続します。
 
■1581年 春〜夏
 
 美濃国・南近江国からの立ち退き要求に従った代償を大和国に求め、大和国からの立ち退き要求に従った代償を美濃国・南近江国に求めの、一進一退。織田家を翻弄しているとも、織田家の手の内に丸め込まれているとも言える。ただ、包囲期間満了を迎えた兼山城は所有権が安定するだろう。
 
・外様大名の一色家が滅亡しました。
・小早川家が滅亡しました。
 
■1581年 秋〜冬
 
 東海地方への豊作で少し頬が緩むも、甲信地方への大雪で顔が真っ青に。高遠城を落として信濃国に初進出の成果は得たものの、ほぼ全ての軍団が雪に足を取られた為に織田軍の伊勢国蹂躙を止められず、信貴山城を囲む武将4・兵力16が孤立無縁になってしまった。降って欲しい時に降らず、降って欲しくない時に降る、天の邪鬼め。
 
・外様大名の相良家が滅亡しました。
・龍造寺家が滅亡しました。
 
■1582年 春
 
 半ば捕らわれの4人は蒲生氏郷・島左近・鳥居元忠・服部半蔵で、失うのは惜しい精鋭ばかり。人道的見地から早急に救出策を練りたいが、先手が徳川家に割り当てられた不運が重たく伸し掛かる。暫定的に伊勢国中央を陣取っている織田軍を東から掃討に向かう素振りを見せては、西にある4人の唯一の逃げ場に狙いを付けられて事態悪化の分岐が生まれるからだ。今は後手の織田軍が悪手を指すように祈りつつ、甲信地方での奮戦を誓うしかない。
 甲信地方では厄介な敵重臣だった柴田勝家の部隊を三度目の正直で壊滅させ、黒田官兵衛(軍17政19魅19)と佐々成政(軍17政2魅12)が新加入。別の場所で上杉家の武将4・兵力62を襲うと、大将の徳川信康が半数の兵力だった柿崎景家に大戦果を食らい、勝利条件を満たすのがやっとの体たらく。そして、問題の4人には最悪に準じる展開が待っており、信貴山城から安濃津城に逃げ帰って正真正銘の一手詰めが完成。
 
・小梁川家が滅亡しました。
 
■1582年 夏
 
 街路を辿っても敵城にしか行き着かない安濃津城は、迎え撃つ兵力も時間稼ぎの耐久度も無い苦境ながら、作戦フェイズが織田家より先なら少なくとも延命には成功する為、諦めずに長島城から武将10・兵力160を桑名城に駆け付けさせる準備を整えた。ただ、悲しいかな今回も織田家が後手で、安濃津城の東の壁には徳川軍の全兵力よりも多い武将10・兵力305を配置され、ターン内の事態解決は危うい雰囲気。西の壁でも武将4・兵力158が臨戦態勢で、刻一刻と状況が悪化していく。前者を野戦で蹴散らし、後者を先攻めで釘付け出来れば理想だが、果たして。
 順番の運を溜めてきた甲斐あり、懸念の作戦フェイズは先手に。野戦で多勢に無勢を覆すには士気か大将部隊のどちらかに狙いを定めるが、敵大将の羽柴秀吉は76の士気を有する上に、兵力40×5の分厚い壁を決して追い越さない慎重な進軍を見せ、力と力の衝突にしばらくは応じるしかない。お蔭で4枚あった兵力1の捨て駒はすぐに足りなくなり、泣く泣く佐々成政を同用途に使い、戦死。そして、一番槍と引き付け役を兼ねた酒井忠次が織田軍に群がられて虫の息となる間に、徳川家康にしか務まらない羽柴秀吉を誘い寄せる囮を演じさせる。この覚悟を決めたことが良い方向に働き、何とか1名の犠牲と引き換えに4名が死地から脱せた。勝利を掴むも消耗戦を余儀無くされた実損で兵力差が保たれ、潰走後の織田軍から反攻を受けたのは意表外ながら、今度の士気開始値は4と最低で容易に逆用。羽柴秀吉を討ち取っていたのが幸いした。
 
■1582年 秋〜冬
 
 記載洩れの行動として、岩村城の包囲を1年以上前から継続の他、夏には上杉家の武将4・兵力4を海津城(信濃)に籠らせた。その近隣の動向を見ると、北条家が北陸地方への入場口となる春日山城(越後)を占拠し、広大な自領に劣勢な上杉家の皆を呑み込むような勢力図が描かれている。これで東側の国境線全体が同盟の保護下に入り、念願だった織田家への全戦力投入が可能に。ただ、加賀国・能登国・越中国を統一する上杉家が北陸地方への移動経路を失い、中国・九州地方においても大友家が優勢な島津家の北上を必死の防戦中。つまり、織田家も徳川家への全戦力投入が可能で、実はちっとも有利になっていない。
 間に合わせの対策として、桑名城の包囲を含めて徳川軍と織田領の接点を消すと、効果はまずまず。城一つの損失は出たものの、海津城と岩村城の獲得で石高は微増した。また、春に徳川信康を半死半生にした豪傑、柿崎景家(軍22政3魅11)を受け入れる。
 
・河野道宣が死去、河野道直が家督を相続します。
・外様大名の蘆名家が滅亡しました。
 
■1583年 春
 
 大まかな所有兵力は上から、織田家6万・北条家5万・徳川家2万5千・上杉家2万・島津家1万5千・大友家1万。出来れば空城攻めでお茶を濁したいが順番に裏切られ、かと言って侵略の意志を見せなければ逆に広範囲の空城攻めを受けてしまうだろう。そこで嫌々、先日に修羅の巷と化した桑名城を侵攻起点に選び、武将19・兵力264の総員を長島城に待機。引き出された反応は武将7・兵力220、大将は士気6×4=24・兵力19の河野道直で、これなら勝算は高いと足手纏いになりそうな手負いの武将は参加させずに臨むと、季節遅れの雪によって狭められた視界が原因で戦術がどうしても遠回りになり、勝つには勝ったが損害も大きい。
 
■1583年 夏
 
 攻めでは美濃国の西半分を貰いに行き、守りでは兵力104の桑名城防衛隊が3倍の敵勢に晒されるも大将集中攻撃で跳ね返しに成功。徳川軍の初手に先んじて織田軍が二手指し、兵力40の一柳直末が兵力25の石川数正を一撃で屠った時には狼狽したが、河野道直を討ち取っていなかったのが幸いした。尚、石川数正は死亡を免れている。
 
■1583年 秋〜冬
 
 織田家とは長らく伊勢国と美濃国での取ったり取られたりに終始しており、膠着状態の打開に鳥もちの戦法を仕掛けてみる。桑名城の耐久度を21に普請後、挑発用の群勢を入城。すると兵力300以上が士気4で押し掛けてくれ、退却予定を変更して潰走をお見舞い出来た。
 美濃国では最西端の大垣城を得たが、相変わらず甲信地方への大雪は降って欲しい時に降らず、先攻めも不発。またもや取ったり取られたりになるのかと思いきや、兵力300以上が士気4で押し掛けてくれ、以下同文。河野道直様々だ。
 
・外様大名の佐野家が滅亡しました。
 
■1584年 春〜冬
 
 春には大垣城の放棄を代価に、桑名城を囲む武将4・兵力50の全滅を求めたが、敵大将が寡兵で作戦失敗。夏には桑名城の放棄を代価に大垣城を奪取し、秋には普請済の大垣城の放棄を代価に桑名城を包囲し、冬には桑名城への猛撃に受けて立ちで、一進一退を維持するだけで精一杯の一年になった。対織田軍に連戦連勝を収めていても、定期収入が1000では疲弊が否めないわ石高増にならないわで、自分で自分の首を締めている感もそこはかとなく。しかしながら、そんな当家と互恵関係を培ってきた北条家が東日本を制覇し、終わりの見えない我慢の日々から反発に移る瞬間が目前に迫っている。
 
・外様大名の葛西家が滅亡しました。
・上杉家が滅亡しました。
 
■1585年 春
 
 開始から10年経過した徳川家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高184 兵力174 所持金98
 
 この5年間はひたすら辛抱を積み重ね、気が付くと島津家にも追い抜かれて総合力最下位まで転落したとは言え、北条家からの力添えが確定した現在は将来性抜群である。
 
●武将
・徳川家康  知行18 兵数31 忠義 ─
 毛利秀頼  知行 0 兵数 1 忠義 9
 分部光嘉  知行 0 兵数 1 忠義 8
 河尻秀長  知行 0 兵数 1 忠義17
・本多忠勝  知行21 兵数10 忠義25
・酒井忠次  知行21 兵数 5 忠義25
・榊原康政  知行 3 兵数 6 忠義23
・石川数正  知行21 兵数16 忠義25
・奥平信昌  知行 3 兵数 6 忠義25
・蒲生氏郷  知行 2 兵数 5 忠義23
 島左近   知行 2 兵数 5 忠義25
 鳥居元忠  知行 2 兵数 5 忠義25
 服部半蔵  知行 2 兵数 5 忠義25
 柿崎景家  知行 1 兵数 3 忠義17
・徳川信康  知行21 兵数 5 忠義25
・真田昌幸  知行21 兵数30 忠義25
・黒田官兵衛 知行21 兵数21 忠義25
・羽柴秀長  知行21 兵数18 忠義25
 
 20万石を割り込んだ直轄領、古豪にも出し渋る知行、総崩れに近い悲惨な兵数と、悪い意味で三拍子揃ってしまった。罰が当たりそうな程に皆の才能を持て余し、何だか申し訳無い。
 
●大名家
・北条家  石高661 兵力870 敵対:無し
・織田家  石高837 兵力658 敵対:徳川
・島津家  石高175 兵力285 敵対:無し
 
 上杉家の滅亡と大友家の北条家への帰服が昨冬に重なり、北条・徳川・島津連合と織田家の決戦前夜と言った様相。徳川家にとって注意を払うべきは織田家ではなく、北条家の一層の成長に変わった。
 
 
 北条家の参戦によって徳川家の負担は劇的に減り、自領に完全防備を敷きつつ安濃津城の武将2・兵力55を全滅及び包囲まで可能だった。
 
■1585年 夏
 
 今や徳川家の命運は北条家の機嫌次第であり、急に首根っ子を押さえられるのはご勘弁と、遅ればせながら金500を包んでみた。素寒貧なりに捻出した額なので、少ないと言うなかれ。
 
石川数正「北条の機嫌を伺うも今は詮無き事‥‥」
 
 哀愁漂う台詞に続いたのは、受け取り拒否との悲報。ただ、織田領への進路が北陸地方の一本しかない北条家には相当数の余剰兵力が出ているにも拘らず、それらを徳川領に向けることなく自領内で遊ばせており、同盟破局の心配は不要のようだ。都合良く解釈すれば、貧乏人が見栄を張るなとの優しさだったのかもしれない。
 
■1585年 秋〜冬
 
 性懲りも無く降伏勧告を突き付けてきた織田家は、北条家の侵略に踏ん張れず徳川家への警戒も蔑ろだが、今は徴兵を優先させたいので新たな獲物に手は出さず。
 
■1586年 春〜夏
 
荒木村重が、織田信忠の軍門に下りました。
 
 言われてみれば彼らの滅亡情報は目にしておらず、少なく見積もっても織田家→上杉家→北条家→織田家と渡り歩いたことに。かつて期待を託した明智光秀は他家の軍団一覧を覗いても行方不明で、織田家を蝕む三匹の蝮は大した存在感を誇示せずに消えていきそうだ。
 休戦中の後手と言う最高の機宜が舞い降り、美濃国・南近江国・大和国に同時出陣。攻めては逃げるの循環で獲得ままならなかった土地だが、もう追い返されまい。
 
■1586年 秋〜冬
 
 可児才蔵が織田家を見限って22の兵力加算となり、複数の城を取って石高も右肩上がりとて、武将4・兵力80を全滅させた長浜城(北近江)に兵力500を傾れ込まれては、総兵力が300を超えたばかりの成り上がり者に有効な対処法は無く、前言撤回で全員撤退。
 
■1587年 春〜冬
 
 織田家健在を思い知らされたばかりなのに気の早い話だが、やがて必ず訪れる北条家との連立政権崩壊後を睨めば、北近江国を支配しておきたい。北条家に丹後国を経た山陰地方への進軍を強制しておけば、僅かな労力で東日本への帰路封鎖を成せるからだ。この異心を見抜かれぬように改めて将来の強敵の元に推参し、手土産の金500を押し付けてやった。
 押し付けと言えば織田家にも押せ押せを通し、長浜城への攻撃再開はもちろん、各所合計で武将6・兵力156の全滅及び大和国・和泉国・南近江国を統一の成果。前2国だけで石高は100万をはみ出す程で、CPUの自動内政の効率には恐れ入る。そして、結城秀康(軍15政11魅12)の元服と引き換えに、29歳の徳川信康が先立ってゆく。
 
・外様大名の荒木家が滅亡しました。
・外様大名の大友家が滅亡しました。
 
■1588年 春〜冬
 
 短期間で膨張した大名直轄領を皆に小分けすると、捨て駒を除く全武将の知行が24万石に達した。開幕から雀の涙の加増で堪え忍んでくれた忠臣、榊原康政・奥平信昌・鳥居元忠に心から感謝を。ただ、君たちの9に満たない政治が冷遇の原因なのも事実だ。
 耐久度46の堅固さに手こずった長浜城を陥落させた頃には、小谷城(北近江)に黄緑の軍旗が先着していた。ただ、こちらは二条城(山城)の接収に成功しており、北条家を山陰地方に閉じ込めるのは難しくないだろう。念には念をで、二条城と小谷城の中間にある織田家の坂本城(山城)が耐久度44・武将6・兵力165の堅城となったのを利用し、これの静観を決め込んで北条家の進軍速度を鈍らせる道具に仕立てておく。金1000の進物もついでに。
 
羽柴秀長「北条を敵にまわさぬためには、是非もございませぬ」
 
■1589年 春〜冬
 
 この2年で徳川軍が葬った織田軍の勘定は武将11・兵力210也。坂本城の罠は効果てきめんで、西への駆けっこは大差で勝者に。紀伊国・摂津国・丹波国を切り取り終え、丹後国と因幡国は通り道として敗者に委譲する。
 
・外様大名の河野家が滅亡しました。
 
■1590年 春
 
 開始から15年経過した徳川家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高526 兵力587 所持金9951
 
 北条家との比較では半分強にしかならないが、クリアには必要十分な量。生き残ることが全ての序盤から、領地拡大競争に乗り遅れまいと必死の中盤を過ぎ、最短所要時間での詰みを読む終盤に突入した。北条家は退路遮断で一網打尽にし、水軍戦を伴わない島津家の始末を目標に据える。
 
●武将
・徳川家康  知行53 兵数40 忠義 ─
 太田一吉  知行 0 兵数 1 忠義20
 丸毛兼利  知行 0 兵数 1 忠義20
 小野木重次 知行 0 兵数 1 忠義24
・本多忠勝  知行39 兵数40 忠義25
 柿崎景家  知行33 兵数40 忠義20
・酒井忠次  知行33 兵数40 忠義25
 鳥居元忠  知行30 兵数26 忠義25
・榊原康政  知行36 兵数40 忠義25
 服部半蔵  知行30 兵数40 忠義25
・石川数正  知行33 兵数40 忠義24
・奥平信昌  知行33 兵数38 忠義25
・蒲生氏郷  知行36 兵数40 忠義23
 島左近   知行30 兵数40 忠義25
・結城秀康  知行33 兵数40 忠義25
・真田昌幸  知行36 兵数40 忠義25
・黒田官兵衛 知行36 兵数40 忠義25
・羽柴秀長  知行33 兵数40 忠義25
 
 野戦で勝ち続けているにも拘らず全体の士気が低下傾向で、特に酷い3名は5を割り込む重症となっており、知行と侵攻軍の調整で対応中。この時折見掛ける現象の条件を是非知りたい。
 
●大名家
・北条家  石高821 兵力965 敵対:織田・島津
・織田家  石高277 兵力285 敵対:徳川・北条・島津
・島津家  石高403 兵力422 敵対:北条・織田
 
 最初に滅亡させるのは織田家で決まりとして、次に敵と見なすべきはどちらか。北条家を選ぶと1位・3位の合同勢力との争いになり劣勢は否めず、島津家を選ぶと前々から狙いの帰路封鎖に先んじて北条家に東日本から手切れされるかもしれない。
 
 
 散発的な抵抗をてきぱきと鎮圧して播磨国を掌握。しかし、追い越してもらわねばならない北条家が丹後国に入ったばかりで、想像以上の遅さに少し困っている。
 
■1590年 夏〜冬
 
 北条家との兼ね合いで派手な振る舞いは自重し、密やかに美作国へと無血入国。他に退路遮断の成功率を上げる為、就職希望者の大量採用を始めた。
 
■1591年 春〜秋
 
 徳川家・北条家・織田家が各々、一つの城に全軍団を置いている。安芸国を治める島津家と初対面した徳川家は高松城(美作)に武将20・兵力605を、場所は違えど状況を同じくする北条家は米子城(出雲)に武将29・兵力1017を。その両方の中間にある津山城(美作)で退っ引きならなくなった武将8・兵力219の織田家は最後の主権を行使し、武将13・兵力422の島津家にお家存続の望みを託した。素直に滅亡を受け入れてくれれば四国地方の大半を得られたはずだが、北条家に吸収されては一大事だったので腹は立たない。
 島津家への挨拶は犠牲を厭わず、津山城を手始めに草津城(安芸)と郡山城(安芸)を連鎖的に破壊し、亀尾城(長門)も崩落寸前に。4度の野戦で部下5万人を無駄死にさせた敗軍の主要武将の内、数名が徳川家で生き恥を晒すことを受け入れ、織田信忠・島津義久・島津義弘が潔く切腹していった。
 
・外様大名の織田家が滅亡しました。
・島津家久が島津家の家督を相続します。
 
■1591年 冬
 
 北条家は総出で小石見城(石見)を一心不乱に包囲しており、こちらが怪しい素振りを見せようと気にも止めないだろう。仲良し小良しの関係から卒業する潮時だ。
 
榊原康政「同盟を一方的に破棄するは武士の恥でござる」
 
 家臣の制止は聞かない振りして、苦楽を長らく共有してきた北条家に絶交を宣言し、小石見城と以東の北条領を切断すべく出雲国から因幡国にかけて三段構えの隔壁を設けた。これだけ厚いとちょっとやそっとの力と時間では貫かれず、例の計画がご破算になる確率は相当低い。
 
■1592年 春
 
 後攻だと不確定要素が増殖してしまう、久々に作戦フェイズの順番が行動の成否を左右する局面で、1/2の賭けに勝ち。孤立無縁の小石見城に駄目を押さんと武将23・兵力613を襲撃させ、最初で最後となるはずの対北条戦がつつが無く開幕した。武将26・兵力977の千軍万馬を率いる北条氏政は戦場角の高地に布陣し、野戦上手とは言えない代わりに要の士気だけは高く、事前に3回仕掛けた寝返りが不発に終わり兵力差を縮められずで、苦戦を連想させる材料は尽きない。だからと言って、敵大将が下山して前線に露出するまでの辛抱を、平地での激しい正面衝突を討ち死に者を出さずに耐え抜くのは、別段の困難でもなかった。ここに『天下布武』名物、退路遮断が成立。
 
・北条家が滅亡しました。
 
■1592年 夏
 
 天下統一を間近に控えた徳川家。
 
●戦力
・石高1576 兵力713 所持金26711
 
 旧北条領は一つも島津家に洩れず莫大な石高に跳ね上がったが、超高速な成長は朝廷を置き去りにしてしまい、官位は治部大輔止まり。
 
●武将
・徳川家康  知行960 兵数40 忠義 ─
 堀秀治   知行  0 兵数 1 忠義16
 戸田勝成  知行  0 兵数 1 忠義17
 那須資晴  知行  0 兵数 1 忠義22
 山口重政  知行  0 兵数 1 忠義15
 関一政   知行  0 兵数 1 忠義15
 石川三長  知行  0 兵数 1 忠義15
 竹中重門  知行  0 兵数 1 忠義13
 寺西是成  知行  0 兵数 1 忠義16
 猪股邦憲  知行120 兵数40 忠義 3
・本多忠勝  知行 42 兵数40 忠義25
 柿崎景家  知行 36 兵数40 忠義25
 福島正則  知行 36 兵数40 忠義24
・酒井忠次  知行 36 兵数40 忠義24
 鳥居元忠  知行 33 兵数40 忠義25
・榊原康政  知行 36 兵数40 忠義24
 服部半蔵  知行 33 兵数40 忠義25
・石川数正  知行 36 兵数40 忠義20
・奥平信昌  知行 36 兵数31 忠義23
・蒲生氏郷  知行 36 兵数40 忠義25
 島左近   知行 33 兵数19 忠義25
・結城秀康  知行 36 兵数40 忠義25
 伊集院忠棟 知行 33 兵数30 忠義25
・真田昌幸  知行 39 兵数40 忠義21
 島津歳久  知行 36 兵数25 忠義25
・黒田官兵衛 知行 39 兵数40 忠義23
・羽柴秀長  知行 36 兵数40 忠義25
 
 元からの家臣のみならず、真田昌幸・羽柴秀長・黒田官兵衛等の道中で拾った武将にも能力面から支えられ、辛くとも楽しい中盤を過ごせた。島津家との頂上対決が1ターンで決着する運びとなり、北条家の遺領を分け与える暇が無かったせいか、忠義に僅かながら乱れが生じているが。
 
 
 軍備・政略フェイズが先手なら、自城と敵城が一対一で向かい合った地点に全徳川軍を纏め、それに反応した全島津軍を野戦で全滅させて攻城戦も速攻で片付ける──以上が希望の筋書で、不幸なことに後手になり出鼻を挫かれたかと思いきや、発注通りの配置に。上記表記載のえげつない誘降は更に重ねるつもりだったが、退却防止に敵軍を弱めた分は自軍も手加減せねばならず、力攻め用兵力を確保する方が重要だろうと猪股邦憲のみとする。そして、408対223の野戦で狙いの勝利条件を阻む障害は無く、勝山城(長門)の耐久度67に力攻め8回と兵糧攻め1回を注ぎ込み、無理攻めの割に捨て駒以外の戦死者が出ずに戦乱の世を終結させられた。
 
・島津家が滅亡しました。
 
 
1592年 夏
 
徳川家康は天下人となった。
 
 
■あとがき
 
 北条家に反旗を翻してからは急転直下で事が進み、1590年の目標を無事に達成出来た為、所要時間は4時間未満と短く収まりました。その反作用で盛り上がり所には欠けるものの、リロード禁止故に都合悪く転んでも挽回可能なように挑んだので、運に頼る比重が軽くない既存のリプレイよりも攻略の参考に使えるのではないでしょうか。ただ、序盤に「最大の山場を迎えるのが1575年の秋」と記したように、個人的には最善手を指し続けてもクリア不確実な難易度高めの大名との位置付けで、定跡と呼べる程に手順は煮詰まっていません。織田家との同盟を大切にしたり、北条家を味方に取り入れなかったり、違った選択肢も試してみて下さい。
 反省点を挙げれば、激戦地に仕立て上げるべき甲信地方の扱いに一貫性が欠け、今日の利益に目が眩んで結果的に織田家から北条家を隔離してしまったこと。そんな不用意な判断が招いた徳川家だけが織田家と敵対の窮境が続く中盤は、やがて北条家からの援軍が貰える展開が確定していなければ、放棄したと思われます。あと、軍事的才能に恵まれた人材の宝庫だった癖に、野戦で戦術ミスと乱数の綾で何度も要らぬ損害が出て参りました。裏を返せば、それだけの失敗を重ねてもやり直しとリロード無しで天下統一に手早く漕ぎ着けられたのですから、シナリオ2における徳川家の意外な優位さを実感出来たとも考えられるでしょう。
 
 
 
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