■本能寺炎上 蒲生家リプレイ
 
 大名:D 戦力:E 配下:E 地利:E 難易度:最上級
 
●戦力
・石高31 兵力20 所持金2000
 
 プレイヤーが選択可能な大名では最低の数値に近く、周囲に吸収可能な弱小勢力が目立つとは言え、前途は多難。北近江国の支配権が唯一の救いか。
 
●武将
・蒲生賢秀 軍事10 政治10 魅力12 士気 6 忠義 ─
・蒲生氏郷 軍事16 政治10 魅力13 士気20 忠義24
 
 武将の数が行動の数に等しい本作で2人からの開始は辛く、全能力が二桁あることのみが心の拠り所。蒲生賢秀よりも蒲生氏郷の方が優秀なので、武将の頭数が揃った暁には大名の首を人為的に挿げ替えよう。
 
●外交
 同盟は遠く離れた鈴木家のみだが、旧織田家家臣とは軒並み友好だ。
 
 
■1582年 夏
 
 柴田家の機嫌を損なわないように美濃国へ進軍させて地道に領地を刈り取るのは、敵となる稲葉家や氏家家に配下がおらず武将を増やせない不安があり、却下。そこで自領の北近江国を死守しつつ柴田家と同盟を成立させ、行動済の柴田家が越前国に軍団を配置していない瞬間を狙い済まして小谷城(北近江)で降伏、その後の謀反で70万石と仕官武将の両方を頂戴可能な攻略手順を採用する。
 
蒲生賢秀「わし自らが同盟の使者を勤めよう」
柴田勝家「この度の同盟の儀、真に祝着至極に存ずる」

 
 こちらの腹積もりを知るや知らずや、首尾良く話に乗ってくれた。あとは南近江国の明智家を牽制する為に蒲生氏郷を長浜城(北近江)に移動させ、初ターン終了。
 
■1582年 秋〜冬
 
 行動済の柴田家を確認すると、残念ながら小浜城(越前)に軍団を配置されて謀反によって得られる利益は半減だが、今後の展開に大差は認められず潔く降伏。依怙地になって最良の機会を待ち詫びるよりも、迅速に妥協した方が結果は伴うと考えた。
 
蒲生賢秀「これ以上柴田には刃向かえぬ」
柴田勝家「大儀である」

 
・河野家が滅亡しました。
・糟屋武則が津田家の家督を相続します。
・森家が滅亡しました。
・十河家が滅亡しました。
 
■1583年 春
 
 ここまで順調に進んだ蒲生家の戦略は、早くも複数の要因から狂い始めた。第一には明智家に長浜城への侵入を許してしまい、簡単には取り戻せなくなったこと。第二には坂本城(山城)への侵攻を命じられ、謀反が無期延期になったこと。早急な方針の転換を余儀無くされるが、敵城を包囲中の現状では如何ともし難い、と言うか手も足も出ない。
 
・毛利家秀頼が滅亡しました。
 
■1583年 夏〜冬
 
 秋に坂本城を落城させて謀反を起こせる状態になるも、こんな中途半端な場所で中途半端な石高を得たところで、今度は羽柴家の軍門に下るだけだろう。その羽柴家は石高70・兵力100以上を保有していた明智家を屈服させ、柴田家との領地拡大競争で大きく優位に立った。
 
・織田有楽斎が織田家信包の家督を相続します。
・三好家が滅亡しました。
 
■1584年 春〜秋
 
 休む間も無く二条城(山城)の兵糧攻めに駆り出され、忍従の日々が続く。
 
・田原紹忍が大友家の家督を相続します。
・外様大名の宇喜多家が滅亡しました。
・田原家が滅亡しました。
・遠山家が滅亡しました。
・滝川家が滅亡しました。
 
■1584年 冬
 
 約2年に及ぶ滅私奉公で柴田勝家からの信頼を勝ち取った蒲生家は、上杉家への備えとして越中国に単独配置されるに至った。同盟の締結に降伏の受け入れに、これまで本当に世話になった主君への申し訳無い気持ちをいっぱいに、裏切る。初期戦力と同等の石高36・兵力50・所持金4000からの仕切り直しは、最初からやり直した方が賢明のような気がしないでもない。蒲生家の独立を朝廷が祝ってくれたのか、初官位となる越中守護を叙任。
 強豪の柴田家と上杉家に挟まれて一触即発の情勢だが、今に限っては季節の恵みの大雪が安全を確保してくれている。短期的な戦略として土地が豊潤かつ守り易い柴田家の領地を頂戴したいので、この束の間の平和を利用して上杉家と羽柴家に同盟を求める使者を送った。
 
蒲生氏郷「それがしにはこのような大役、勤まりませぬ」
上杉景勝「軍勢をおして参られよ。この景勝いつでもお相手いたす!」
 
蒲生賢秀「羽柴と結ばねば我が蒲生家が危うい」
羽柴秀吉「お断り申す」

 
・外様大名の宇都宮家が滅亡しました。
・佐竹家が滅亡しました。
 
■1585年 春
 
 交渉の担当者を入れ換えて外交折衝を行うと、色好い返事が片方から寄せられた。
 
蒲生氏郷「お引き受け申す」
羽柴秀吉「羽柴秀吉、同盟の儀しかと承った。ご案じめされい」

 
 これで羽柴家と協力して柴田家を攻撃し、北陸地方に拠点を築き上げる手筈が一応は整った。
 
・河尻家が滅亡しました。
 
■1585年 夏
 
 再三の同盟要請にも拒絶を貫いた上杉家が蒲生家への敵対心をあらわにし、春日山城(越後)に武将7・兵力79を配備。正攻法で防げない蒲生軍は先攻めで足止めを試みれば、先んじて行動されて失敗に終わったばかりか、野戦時に退避の決断が遅れたせいで無用な被害を出してしまう。攻められてばかりでは面目が立たず、空城だった柴田家領地の金沢城(加賀)を嫌がらせのごとく包囲しておいた。
 
・里見家が滅亡しました。
・外様大名の山岡家が滅亡しました。
・滝川雄利が織田家信雄の家督を相続します。
 
■1585年 秋
 
 兵糧攻め中の魚津城は未だレベル27を誇る堅城で、恐らく春までなら耐えられるだろうが、問題は反対側。柴田家からの挟撃を阻止せねばならず、蒲生氏郷で包囲中の金沢城へ富山城(越中)から蒲生賢秀を応援に駆け付けさせる。しかし、地力で圧倒の柴田軍は我らを優に上回る兵力を動員し、絶体絶命に追い込まれた。ここから押し返されれば近日中の滅亡は確実、もう祈るしか無い。
 この真摯な祈りが通じたのか、柴田軍はなぜか動かなかった。旧臣を哀れんで柴田勝家が敵に塩を送ったのか、キリシタンの蒲生氏郷の信仰心が奇跡を起こしたのか、どちらにしても九死に一生を得たのは確かだ。
 
・外様大名の千葉家が滅亡しました。
 
■1585年 冬
 
 武将不足に泣く蒲生家を救うべく、自身の無能さを差し置いて蒲生郷安(軍8政1魅9)が元服。金沢城を落とす。
 
■1586年 春
 
 柴田家の武将2・兵力42が配備された大聖寺城(加賀)への対策として、金沢城には重臣に抜擢した蒲生郷安を残し、主力部隊はレベル10まで防御力が落ち込んだ魚津城の救援に向かう。この城が時間を稼いでくれたお陰で、一時は背中を向けて逃げるしか手立てのなかった魚津城の敵勢と数の上で互角となった。柴田軍には先攻めを実施して成功、上杉軍とは大将部隊が手薄で難無く勝利を収める。
 
■1586年 夏〜冬
 
 交戦中の柴田家・上杉家よりも先手を取ったことから、物は試しと前線から全軍団を富山城に後退させてみる。蒲生家からの無言の休戦要請に両家がまんまと呼応するよう期待していると、上杉家は駄目だったが柴田家が騙されてくれた。魚津家に再度攻め入った上杉軍の武将5・兵力34は、速攻の反撃で全滅。工夫すれば家臣に引き込むことも出来た敵将を十把一絡げに殺めたのは勿体無いが、この損失で上杉家も少しは大人しくなるだろう。
 
・真田幸村が真田家の家督を相続します。
・葛西家が滅亡しました。
 
■1587年 春
 
 開始から5年経過した蒲生家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高48 兵力74 所持金10108
 
 当初の目論見では開始1年で70万石を手にしていたはずなのに、5年も経ってこの数字とは想定していなかった。羽柴家との同盟や上杉家の弱体化で局地的な安定は得られたが、中規模の勢力すら淘汰され始めた大局を見れば今後は厳しいか。
 
●武将
・蒲生賢秀 知行26 兵数40 忠義 ─
・蒲生氏郷 知行21 兵数31 忠義25
・蒲生郷安 知行 1 兵数 3 忠義18
 
 石高は稼げる余地があるものの、人材は補充する当てが無い。この先、越中国や能登国から仕官してくれる武将はいるのだろうか。
 
●大名家
・北条家  石高305 兵力383 敵対:上杉 徳川 
・徳川家  石高166 兵力309 敵対:上杉 北条 柴田
・上杉家  石高 99 兵力 88 敵対:北条 徳川 蒲生 柴田 
・柴田家  石高386 兵力609 敵対:上杉 徳川 蒲生 羽柴
・羽柴家  石高238 兵力444 敵対:柴田
・毛利家  石高215 兵力407 敵対:龍造寺
・龍造寺家 石高 58 兵力112 敵対:毛利 島津
・島津家  石高134 兵力268 敵対:龍造寺
 
 この春に明智家が謀反を起こして羽柴家から柴田家へ鞍替えしたことが情勢に変化をもたらしたが、やはり敵の少ない北条家・羽柴家・毛利家の方が将来性は認められる。この一覧を眺めると、蒲生家に付け入る隙があるようには思えない。
 
 
 北陸地方を無血で開拓してゆく蒲生家は、無人の春日山城・大聖寺城・七尾城(能登)に乗り込む。
 
■1587年 夏〜1588年 春
 
 後手を取れれば一時撤退で徴兵と城攻めを両立させつつ、大聖寺城・春日山城・七尾城の順番で攻略。柴田家は羽柴家との、上杉家は北条家との争いに明け暮れていたお蔭で、蒲生家の狼藉には目もくれなかった。
 
・外様大名の糟屋家が滅亡しました。
・堀内家が滅亡しました。
・織田家信孝が滅亡しました。
・外様大名の阿蘇家が滅亡しました。
・筒井順慶が死去、筒井定次が家督を相続します。
・鈴木佐大夫が享年59、雑賀孫一が家督を相続します。
・龍造寺隆信が享年59、鍋島直茂が家督を相続します。
 
■1588年 夏
 
 能登国と加賀国が新たな支配国に加わり、石高は113万石まで膨れ上がった。しかし、肝心の動員可能兵力は武将3×40=120に変わりなく、余り余った大名直轄領を生かそうと寝返りを企てても、該当する武将がいない困った状況。また、上杉領が南から次々に失われたことにより、北条家や徳川家との関係が微妙になってきているが、こちらとしても越後国から撤退する訳にはいかない。とりあえず最寄りの天神山城を攻めておき、上杉景勝の跡を継いだばかりの上条政繁を籠城させた。
 
・上条政繁が上杉家の家督を相続します。
・外様大名の最上家が滅亡しました。
 
■1588年 秋
 
 右京大夫を叙任。説明書曰く「官位が高くなると外交などが有利」とのことなので、大名を捕らえたも同然な上条家に対して降伏を勧告してみた。使者を勤めるのは、先攻め要員として春日山城に残った蒲生郷安である。
 
蒲生郷安「屈伏するに相違ありませぬ」
上条政繁「まだ負けと決まった訳ではござらん」

 
 政治1の彼には到底無理な仕事だった。
 
・高梨頼親が上条家の家督を相続します。
 
■1588年 冬
 
 大雪に埋もれながら徴兵・内政・外交を行う。
 
蒲生賢秀「わし自ら普請いたそう」
 
蒲生氏郷「拙者にお任せを」
高梨頼親「痴れ者が!高梨が屈すると思ったか!」
 
蒲生郷安「おやめくだされ!話の通じる相手ではござらぬ」
柴田勝家「重臣と相談の上、ご返事申すゆえ、しばらくお待ちいただきたい」

 
 このシナリオでは同盟が成立しないと思われる北条家・徳川家との緊張が高まる前に、ここまで敵国として見ていた柴田家との和睦を持ち掛けるも、もう一押し足りず。
 
■1589年 春〜夏
 
 同盟要請と降伏勧告を継続するが拒否され、栃尾城(越後)の高梨家を一度は攻めるが北条家に漁夫の利を得られそうで引き返し、栃尾城を包囲する北条家配下の北条氏尭に寝返りを願い出るが実を結ばず、新発田城(越後)を守備する北条家の武将を獲得すべく出陣するも到着前に余所へ侵攻される等、この半年間は全ての計画が空振りに終わる。
 
■1589年 秋〜冬
 
 北条軍の武将2・兵力80が包囲中の栃尾城に同兵力で攻め懸かると、山地に覆われた戦場で部隊を縦横に動かせず、何とか勝利を収めるものの甚大な被害を食らってしまった。新発田城の兵糧攻めを一旦中断させ、120の全兵力で野戦に挑むべきだったと悔やむが、後の祭りである。冬は大雪に与えられた猶予で傷を癒し、栃尾城をレベル12まで普請。
 
・鍋島家が滅亡しました。
・外様大名の雑賀家が滅亡しました。
・外様大名の高山家が滅亡しました。
・外様大名の真田家が滅亡しました。
・高梨家が滅亡しました。
・蘆名盛隆が死去、延沢満延が家督を相続します。
・外様大名の筒井家が滅亡しました。
・安東家が滅亡しました。
 
■1590年 春
 
 北条軍が栃尾城に向けて武将2・兵力80を、新発田城に向けて武将3・兵力68と武将2・兵力41を配備したことを受け、総兵力が100に満たない蒲生軍は栃尾城を捨て石として新発田城に集結。多少の石高や兵力を失ったとしても、懸案である武将の頭数を増やせたなら万々歳と考え、3人の配下候補が待ち受ける檜山城(出羽)へ遠路遥々赴いた。
 蒲生軍77対北条軍68と楽な野戦ではなかったが、檜山城は北条領から孤立した場所にあり、大将部隊さえ倒せば良い点に助けられた。討ち死に防止の為に先制攻撃で止めを刺さないよう手厚く配慮し、見る見る減少してゆく兵力に構わず計4回の力攻めを行った結果、兼ねてからの望みが叶えられる。太田氏房(軍10政1魅8)・大崎義隆(軍9政5魅13)・本庄繁長(軍16政11魅11)を獲得。
 
■1590年 夏〜秋
 
 自領を増やしても分け与える配下が存在しなかった悩みが解決され、喜び勇んで知行の配分と徴兵、重臣抜擢と再編成で蒲生軍の増強を図る。
 
本庄繁長「粉骨砕身してご奉公参る」
 
 大崎義隆と本庄繁長は褒美を500ずつ授けても忠義が一桁と非常に低く、折角手に入れた武将に裏切られては元も子も無いので、彼らの人心を掌握出来るまでは褒美を奮発することに。忠義の話題としては、元服直後から20前後で安定していたはずの蒲生郷安に低下傾向が見受けられ、知らぬ間に15まで下がっていた。政治1の分際で生意気な。
 作戦フェイズでは、伊達家傘下となった南部家拠城の八戸城(北陸奥)に侵攻。その従順さには定評のある南部信愛の生け捕りを狙うが、大名の南部信直が自ら突撃で戦死して失敗となった。また、栃尾城は救援を送る手筈が整わずに陥落している。
 
・南部信愛が南部家の家督を相続します。
・南部信愛が伊達家の家督を相続します。
 
■1590年 冬
 
 同盟したり降伏したり謀反したり敵対したり休戦したりと、良きにつけ悪しきにつけ序盤から関係の深かった柴田勝家が、老いに破れて死去。また、北条家外様大名の妻木家が山形城(出羽)で謀反を起こし、石高28・兵力42の新勢力が奥州地方に誕生している。どちらも蒲生家にとっては朗報だったが、長らく休戦が継続していた柴田家との国境線が突如として破られ、加賀国の大聖寺城が奪われると言う悪報も届いた。
 
・柴田勝家が享年69、柴田勝政が家督を相続します。
・中川清秀が死去、中川家が滅亡しました。
・外様大名の南部家が滅亡しました。
 
■1591年 春
 
 加賀国に侵入した柴田軍は何事も無かったかのように大聖寺城から撤収してくれ、北陸方面の被害は最小限で済んだ。蒲生軍は奥州地方の南下を開始し、ここまで北条家からの圧力をよく耐え凌いだ小野寺家の横手城(出羽)を攻囲する。
 
■1591年 夏
 
 現状では最も天下人に近い位置まで上り詰めた柴田勝政が、神様の悪戯にしてやられたのか寿命判定を前倒しにされ、夭折。先代が何年にも渡って守り通した蒲生家との休戦協定を、気安く犯した天罰を食らったのかもしれない。そんな運に見放された柴田家から突き付けられた脅迫は鼻で笑って無視しつつ、寺池城(北陸奥)に籠る百姓一揆を鎮圧。近隣勢力の動向としては小野寺家は北条家に、妻木家は柴田家に降伏した。
 
・柴田勝政が享年33、柴田勝敏が家督を相続します。
 
■1591年 秋〜冬
 
 奥州地方に主戦場を据えた蒲生家の領地を分断させるのが狙いか、南陸奥国から越後国に傾れ込もうとしている北条軍を発見した為、こちらから侵攻して外様大名の木曽義昌を討ち取った。また、落とした横手城から投降を申し出てきた3人の武将が配下に加入。
 凡将の小野寺康通(軍7政6魅10)と小野寺義道(軍7政2魅8)は数合わせに過ぎないが、蒲生軍においてはその軍事力が三本の指に入る鮭延秀綱(軍16政7魅11)の価値が高い…と喜んだのも束の間、彼は冬の大雪に紛れて北条家へと逃亡した。蒲生賢秀の人徳の無さ故か。
 
・外様大名の小野寺家が滅亡しました。
・木曽義利が木曽家の家督を相続します。
 
■1592年 春
 
 開始から10年経過した蒲生家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高151 兵力215 所持金18267
 
 この5年で多くの敵城を落としたが、越後国から奥州地方に抜けた進路は見返りに乏しく、領地拡大競争からは依然乗り遅れたままだ。苦心の末に関東地方進出の目処が付いたので、これからが本番だと気を取り直して挑みたい。
 
●武将
・蒲生賢秀  知行42 兵数40 忠義 ─
・蒲生氏郷  知行24 兵数40 忠義25
 大崎義隆  知行21 兵数40 忠義24
 太田氏房  知行21 兵数40 忠義25
 小野寺康通 知行 0 兵数 1 忠義22
 小野寺義道 知行 0 兵数 1 忠義23
・蒲生郷安  知行21 兵数13 忠義20
・本庄繁長  知行21 兵数40 忠義13
 
 能力に不満が残るが、頭数は揃った。何としてでも当家に引き止めたい本庄繁長だが、褒美の与え忘れもあって裏切られる危険性は今も回避されていない。配下武将を均等に振り分けていないのは、軍団長に相応しい人材が蒲生氏郷しかいない為。死期が迫っている蒲生賢秀では死亡時に勝手に重臣抜擢が発生して困らされるし、無能な蒲生郷安に任せては忠義の低下が免れず、いつ寝返られるか冷や冷やの本庄繁長は言わずもがな。
 
●大名家
・北条家  石高472 兵力233 敵対:蒲生 徳川
・徳川家  石高142 兵力203 敵対:北条 柴田
・柴田家  石高581 兵力657 敵対:羽柴 徳川 蒲生 毛利
・羽柴家  石高196 兵力328 敵対:柴田
・毛利家  石高302 兵力391 敵対:柴田 島津
・島津家  石高 65 兵力110 敵対:毛利
 
 徳川家と柴田家の間には崩れにくい休戦が成立しており、蒲生家にとって難敵となるはずの北条家は所有石高が高い割に楽な立場ではない。羽柴家は柴田家からの攻撃に耐え切れず領地を侵食され始めたが、盟友の毛利家が救援に乗り出したので力関係は拮抗に向かうだろう。また昨秋には、明智家が柴田家を背信して羽柴家へ出戻ったことを付け加えておく。
 
 
 蒲生軍は奥州地方の完全掌握を第一目標に北条軍の武将3・兵力33を壊滅させ、現場に居合わせた不届き者の鮭延秀綱を成敗した。毛利家との交戦により西日本における絶対的優位性が崩壊した柴田家は早速、柴田勝敏を討ち死にさせている。
 
・佐々成政が柴田家の家督を相続します。
 
■1592年 夏〜冬
 
 劣勢な北条家が蒲生家への抵抗を放棄して全軍団を徳川家に向け配備した為、然したる邪魔も無く奥州統一事業を進行させていた最中、10年余りの歳月を掛けて数倍に成長させた領国を息子への遺産に残し、蒲生賢秀がその生涯を閉じた。これで配下の忠義も安定する、とは不謹慎か。
 
・蒲生賢秀が享年59、蒲生氏郷が家督を相続します。
・延沢満延が死去、延沢家が滅亡しました。
・外様大名の木曽家が滅亡しました。
・外様大名の妻木家が滅亡しました。
 
■1593年 春〜夏
 
 今夏に下吉忠(軍13政3魅8)が当家初となる仕官に訪れてくれた他、昨秋には西尾光教(軍12政10魅5)を滅びゆく妻木家からせしめており、蒲生賢秀の抜けた穴は手早く埋まった。奥州地方を完全な支配下に置いた蒲生家は、宇都宮城(下野)を皮切りに狙いを関東地方へ移り変える。北条家を滅亡させれば遺領の大半が組み込まれる状況であることを考えると、真正面から野戦で全滅させてゆくのが最も効率の良い戦い方だろう。
 
■1593年 秋〜冬
 
 兵力配備の段階で一本取られて宇都宮城を奪還されたものの、太田城(常陸)の包囲で挽回したところまでは予定通り。しかし、次の季節が冬であり、奥州地方に当たり前に降り積もった大雪によって退路を遮断される大失策を犯してしまう。敵城に孤立中の蒲生軍武将5・兵力154を目聡く見付けた北条軍は、全軍団の武将7・兵力237を動員しての一大決戦を仕掛けてきた。
 退却も籠城も許されず敗北は即ち蒲生家の壊滅を意味していたが、ある一人の英雄の活躍によって事無きを得た。それが蒲生氏郷でもなければ蒲生郷安でもなく、前線に飛び出してくれた敵大将の北条氏政を指すのはお約束。それにしても、これまで守護神のごとく蒲生家に恩恵をもたらしてくれた大雪に、手の平を返されるとは思いもよらなかった。
 
・稲葉一鉄が死去、稲葉道通が家督を相続します。
 
■1594年 春〜夏
 
 冷や汗をかかされたお返しとばかりに、宇都宮城で武将4・兵力92を、府中城(常陸)で武将2・兵力67を、古河城(下総)で武将1・兵力40を立て続けに全滅させ、城を落とせば北条家が滅亡となる形を作り上げる。この局面で他家に降伏されると悲しいので、本来であれば一気に力攻めで片を付けるべきだが、必要な兵力が足りなかった。
 
・北条氏忠が北条家の家督を相続します。
・島津家久が島津家の家督を相続します。
・島津家が滅亡しました。
 
■1594年 秋〜冬
 
 武将3・兵力3の北条氏忠は悪あがきせず滅亡してくれ、北条家との争いを終結させたことにより関東一円が報酬として得られる。つい先日まで弱小に甘んじていた蒲生家は、瞬く間に606万石を有する巨大勢力に生まれ変わった。手に入れたのは領地ばかりではなく、合計6人の武将と治部大輔の官位まで。遺領を分け合う徳川家との国境線は信濃国・甲斐国・相模国に引かれ、レベル58で健在の小田原城(相模)はあちらに転がり込んでいる。
 
・北条家が滅亡しました。
・外様大名の織田家有楽斎が滅亡しました。
 
■1595年 春〜冬
 
 戦場を甲信地方と東海地方に、標的を徳川家に移して、蒲生軍の大遠征が開始される。場所と相手は変わったものの、地利を生かして敵部隊の全滅を積極的に狙ってゆく戦術に変更はない。夏には蒲生秀行(軍3政10魅9)が元服し、武将数は16人になった。一族のみ数人で右に左に忙しかった頃が懐かしい。
 戦国の世を巧みに泳ぎ回る明智家は羽柴家に従うのに飽きたらしく、佐々家に新天地を求めた。何度も裏切る方も裏切る方だが、何度も受け入れる方も受け入れる方である。
 
・外様大名の滝川家が滅亡しました。
 
■1596年 春〜夏
 
 実数では五分五分となる徳川軍だが、兵力を集中的に運用させるのが下手だった為、蒲生軍は各地で連戦連勝。次々に討ち死に・斬首・切腹されてゆく武将の中には、大名の徳川家康も含まれる。また、ここまで羽柴家と共闘して柴田家に抗していた毛利家が、美作国を手始めに羽柴家の領地を武力で吸収し始めた。蒲生家との最終決戦を睨んでの判断か。
 
・松平忠吉が徳川家の家督を相続します。
・外様大名の相馬家が滅亡しました。
・外様大名の稲葉家が滅亡しました。
 
■1596年 秋〜冬
 
 蒲生軍の全滅作戦を浴びに浴びて武将5・兵力7300まで弱った松平家が毛利家の軍門に下るが、諸処に散らばっていた軍団が強制的に一纏めになるのでむしろ死期は早まり、掛川城(遠江)を最後の抵抗の舞台にして滅亡。この間に長らく交流が途絶えていた佐々家が久し振りに加賀国への侵犯を再開したが、今更北陸地方を攻撃されても痛くも痒くもなく、無視を決め込んだ。
 冬には西日本の勢力均衡を好き放題に荒らしまくった明智光秀が寿命を迎え、毛利家との頂上対決に向けて余計な不確定因子が徐々に取り除かれてゆく。
 
・外様大名の松平家が滅亡しました。
・大谷吉継が明智家の家督を相続します。
 
■1597年 春
 
 開始から15年経過した蒲生家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高663 兵力556 所持金2267
 
 北条家から譲り受けた遺領で飛躍的に石高を増加させることに成功し、常駐兵力はいつの間にか現存の勢力で第一位の規模になった。所持金は内政をほとんど実施していないのに毎年使い果たしており、野戦の頻繁さと被害の大きさを物語っている。
 
●武将
・蒲生氏郷  知行183 兵数40 忠義 ─
 大崎義隆  知行 33 兵数40 忠義22
 大久保長安 知行 33 兵数40 忠義13
 蒲生秀行  知行 33 兵数40 忠義25
 成沢道忠  知行  0 兵数 1 忠義13
 大関資増  知行  0 兵数 1 忠義10
・西尾光教  知行 36 兵数35 忠義25
 小野寺康通 知行 33 兵数23 忠義25
 小野寺義道 知行 33 兵数30 忠義25
 北条氏盛  知行 33 兵数33 忠義20
・蒲生郷安  知行 36 兵数40 忠義25
 太田氏房  知行 33 兵数40 忠義25
・本庄繁長  知行 36 兵数40 忠義22
 牧野康成  知行 33 兵数40 忠義20
 北条氏規  知行  0 兵数 1 忠義 1
・富田将監  知行 40 兵数40 忠義25
 下吉忠   知行 33 兵数40 忠義25
 酒井忠次  知行 33 兵数32 忠義22
 
 序盤に武将の少なさに苦しめられた経験から、今になって必要以上の数を抱えてしまっている。まともに面倒を見る気のない武将はいずれ他家の戦力と化して足を引っ張られる可能性があるのだから、これからは仕官に対しても拒絶した方が無難だろう。
 
●大名家
・佐々家  石高464 兵力333 敵対:蒲生 羽柴 毛利
・羽柴家  石高100 兵力173 敵対:佐々 毛利
・毛利家  石高752 兵力455 敵対:蒲生 佐々 羽柴
 
 1585年に結ばれた蒲生家と羽柴家の同盟は、双方の利益となる場面が全く訪れないままひっそり継続中であり、滅亡間際に降伏を願い出てくれたなら大歓迎なのだが。蒲生家と毛利家の敵対は旧徳川家との争いによるもので、本隊同士が刃を交える段階はまだまだ遠い。度重なる代替わりで転落必死かと思われた佐々家は意外な健闘を見せ、毛利家は成長が頭打ちとなる苦戦模様。羽柴家との手切れが早計だったのかもしれない。
 
 
 直接的な敵が消えた蒲生軍は手持ち無沙汰となり、遠江国・三河国・美濃国に立ち並ぶ毛利家の空城を攻めて暇を潰した。
 
・外様大名の大谷家が滅亡しました。
 
■1597年 夏〜冬
 
 蒲生軍の本隊が尾張国まで到達し、分隊が美濃国と加賀国から佐々家領地への突入を開始した途端、佐々成政は敢え無くお陀仏となった。この勢力は一族が途絶えて尚、不幸に巡り合い続けている。
 
・佐々成政が享年59、京極高知が家督を相続します。
 
■1598年 春〜夏
 
 上総国にて切支丹が布教を行っているとの知らせが舞い込み、どうしたものかしばらく悩む。これを許すと国パラメーターが若干上昇する代わりに家臣の忠義が大幅に低下してしまうのだが、蒲生氏郷を大名に選んで弾圧する訳にもいかなかった。恐る恐る軍団一覧で忠義の値を確認すると…西尾光教が25、蒲生郷安が22、本庄繁長が18、富田将監が25と、軍団数を控えめにしていた利点もあり大した変化は見受けられず、胸を撫で下ろす。
 四方八方から攻撃を受ける京極家は春の時点で武将9・兵力173まで衰えており、蒲生家による美濃国・加賀国の統一と北近江国・伊勢国への侵入を阻む者はいない。これにより北陸地方で領地を接した同盟国を全面的に支援しようと志した矢先、毛利家に羽柴秀吉を討ち取られてしまう。一足遅かった。
 
・外様大名の氏家家が滅亡しました。
・木下家定が羽柴家の家督を相続します。
・小出吉政が京極家の家督を相続します。
 
■1598年 秋
 
 石高769・兵力531の蒲生家を石高893・兵力510の毛利家が牽制し始め、遂に二大勢力の両家は一触即発の情勢に。そんな中、木下家は毛利家の大軍に屈して武将6・兵力82の全軍団がレベル7の北庄城(越前)に籠城しており、一両日中の滅亡が決定的となっている。蒲生家としては常に親善な関係を継続してきた旧羽柴家を救出するにやぶさかではなく、その前段階として降伏をやんわりと勧告した。彼らにとって悪い話でもあるまいし、自分たちの正確な境遇を認識していれば承諾してくれるだろう。
 
酒井忠次「木下家が我らの軍門に下るも、もはや時間の問題」
木下家定「痴れ者が!木下が屈すると思ったか!」

 
 思ってもみなかった暴言に機嫌を少々損ねるも、北庄城を取り囲む毛利軍武将8・兵力205に蒲生軍武将9・兵力293を強襲させた。数的優位を確保しており当然目指すは全滅だったが、常に戦意に乏しい毛利輝元が大将では途中で潰走が発生してしまい不可能である。そんな困った事態を招いた当人を逃げられる寸前に討ち取れたので、良しとしておこう。
 懐が深い蒲生氏郷は木下家に最後の機会を与えようと野戦勝利後に城の包囲権を放棄して退却を選択するものの、遅れて順番が訪れた毛利家に改めて侵攻されたらしく、その配慮は全くの無駄に終わる。また、この戦いに不参加の軍団も桑名城(伊勢)にて小出吉政を切腹させており、蒲生家にとって非常に有意義な季節となった。
 
・小川祐滋が小出家の家督を相続します。
・小早川隆景が毛利家の家督を相続します。
・外様大名の細川家が滅亡しました。
・木下家が滅亡しました。
 
■1598年 冬
 
 小早川家の小谷城を取り囲む小川軍を滅ぼし、元々は蒲生家が支配していた北近江国を十数年振りに再度統一。紆余曲折の末、帰るべき場所に帰ることが出来て感無量である。
 
・小川家が滅亡しました。
 
■1599年 春
 
 旧羽柴家と旧柴田家が相次いで滅び、天下人争いは石高1040・兵力524の蒲生家と、石高895・兵力479の小早川家に絞られた。先手を取ったことで主導権を握った蒲生軍は、大聖寺城をレベル41に普請しつつ大兵力を結集させて目前の敵を煽り、更に小谷城に少数の別動隊を組織する。これは小早川軍を加賀国の入り口で受け止めている間に越前国を即座に封鎖し、北陸地方のごく狭い範囲に主力部隊を閉じ込めてしまおうとの魂胆だが、この目論見を察知して素早く動いた小早川軍に小谷城をあっさり抜かれてしまい、作戦は失敗となった。
 
■1599年 夏
 
 軍備・政略フェイズと合戦フェイズは共に、小早川家から蒲生家の順。包囲中の城からの引き払いや長浜城の普請等を行い、毛利家の大軍と隣り合う坂本城と長浜城から小谷城への侵攻を命じたところ、坂本城に攻め入った武将9・兵力357を孤立させる形が作り上がった。
 
■1599年 秋
 
 召し抱えた当初から忠誠心の欠片も見られなかった大久保長安が、蒲生氏郷より与えられた40の兵力を手土産として小早川家に寝返ったことを受け、報復に調略を仕掛ける。
 
富田将監「我らの軍門に下って参りましょう」
小早川秀包「これより蒲生氏郷殿を主君と仰ぎ奉る」

 
 小早川秀包の連れてきた兵力34に徴兵を加え、あっと言う間に元通りに。忠義は15と決して低くないのに、政治5の武将による30万石の提示で裏切ってくれるのだから、実に操り易い人物である。
 蒲生家の作戦フェイズ時において、小早川軍の配置は越前国の小浜城に武将3・兵力88と北庄城に武将3・兵力63、山城国の坂本城に武将11・兵力402となっている。坂本城の小早川軍対策として、街路の繋がりが複雑で守り難い近畿地方の内部に抉り込まれるのを防ごうと同国の二条城をレベル61に予め強化しており、これで先に行動されても二条城が兵糧攻めに耐えている間に退路を完璧に絶つことが可能。そのような確信を持って合戦フェイズに挑んだところ、現在の小早川軍は行動順の運を味方にするだけでなく戦略も的確で、後手を踏んだ蒲生軍を嘲笑うかのように小谷城へと取って返されてしまった。しかしながら、その敵軍を撃退した姉川の戦いで小早川隆景を討ち取れたので、満足とする。
 
・穂井田元清が小早川家の家督を相続します。
 
■1599年 冬
 
 穂井田元清が死去し、我が目を疑う。蒲生家に敵対する大名は尽く絶妙な時期に朽ち果てており、偶然にしては展開が出来過ぎな気がしてきた。
 久方振りの官位叙任で右大臣となった蒲生家は念願の行動順先手を獲得し、武将15・兵力539の全軍団に対して命じた坂本城への侵攻が成立。逃げ場の無い繁沢軍は闇夜に乗じた決死の抵抗を試みるも多勢に無勢、繁沢元氏が率いる武将10・兵力288が退路遮断により一瞬で壊滅した。ちなみに落城の際、秋に自ら蒲生家を去った大久保長安が厚顔無恥にも降伏を願い出てきたが、即答で高野山に追放している。
 
・穂井田元清が享年49、繁沢元氏が家督を相続します。
・外様大名の長宗我部家が滅亡しました。
・外様大名の池田家が滅亡しました。
・山田有栄が繁沢家の家督を相続します。
 
■1600年 春〜夏
 
 多数の将兵を失った山田家の戦力は武将5・兵力142で、北庄城に武将1・兵力24を、尼崎城(摂津)に武将2・兵力63を、堺城(和泉)に武将2・兵力55を振り分けた。蒲生軍は北庄城には本庄繁長の武将2・兵力47を、尼崎城には富田将監の武将2・兵力80を、堺城には蒲生郷安の武将2・兵力66をと、敵を全滅させるに適当な軍団を各所に派遣。合戦フェイズの順番と野戦如何によって天下統一が内定する。
 
本庄繁長「時機至る!総攻撃じゃ!」
富田将監「山田有栄ごとき、とるに足らぬわ!」
蒲生郷安「それがしも戦機かと存じまする」

 
 残念ながら先に動かれてしまい一ヶ所の始末は夏に後回しとなったが、他の二ヶ所では思惑通りの戦果を収めた。
 
・村上武吉が山田家の家督を相続します。
 
■1600年 秋
 
 天下統一を間近に控えた蒲生家の状況。
 
●戦力
・石高1030 兵力426 所持金71094
 
 北条家にしろ柴田家にしろ毛利家にしろ、著しく肥大した敵対勢力が現れず、当家も常駐兵力400を確保していれば不自由は無かった。
 
●武将
・蒲生氏郷  知行585 兵数40 忠義 ─
 大崎義隆  知行 33 兵数40 忠義25
・西尾光教  知行 36 兵数40 忠義25
 小野寺康通 知行 33 兵数33 忠義25
 小野寺義道 知行 33 兵数40 忠義23
 蒲生秀行  知行 33 兵数16 忠義25
・蒲生郷安  知行 36 兵数19 忠義25
 太田氏房  知行 33 兵数18 忠義21
・本庄繁長  知行 36 兵数37 忠義18
 下吉忠   知行 33 兵数32 忠義25
・富田将監  知行 40 兵数32 忠義25
 小早川秀包 知行 30 兵数29 忠義13
・酒井忠次  知行 36 兵数27 忠義24
 牧野康成  知行 33 兵数23 忠義18
 
 終盤は戦略を練るのに集中したせいで、溢れ出した大名直轄領をそのままに家臣への加増をすっかり忘れてしまったが、それでも大方の武将が高い値で安定してくれた。蒲生賢秀が健在ではこうはならなかっただろうし、能力が微妙な大名は適時に寿命で死ぬのも仕事の内、とは言い過ぎか。
 
 
 村上家の武将3・兵力3が立て籠る堺城を力攻めで落として旧毛利家は滅亡、親子二代に渡って繰り広げられた蒲生家の戦はここに幕を閉じた。
 
・村上家が滅亡しました。
 
 
1600年 秋
 
蒲生氏郷は天下人となった。

 
■あとがき
 
 全体的に順調な進行と展開に恵まれたこれまでと違い、今回は少なからずの困難に遭遇しました。謀反がなかなか起こせずに大きく出遅れた1584年、上杉軍と柴田軍に挟まれて危機的状況に陥った1585年、武将数が増えそうになく困り果てた1588年、大雪で敵城に取り残された際に北条軍有利の決戦を仕掛けられた1593年と、途中何度も最初からやり直そうとしています。それでも滅亡が確定するまではと一応継続したところ、終わってみればリプレイ3回目にして初のリロード無しによるクリアが叶いました。何がどう幸いするかわかりませんね。
 出遅れは中盤以降に各地の均衡が保たれたことで、危機的状況は柴田軍がなぜか手を抜いてくれたことで、武将数は初めて配下に加わった忠義の低い本庄繁長と大崎義隆が裏切らなかったことで、北条軍有利の決戦は大将部隊に騎馬が編成されており守備力に乏しかったことで、それぞれ難を逃れています。こうして記憶を辿って並べてみると、プレイヤーのテクニックではなくCPUの思考ルーチンや乱数に頼って全部を解決した点が、少し淋しい気もしますが。自分で決めた戦略が功を奏したのは北陸地方から関東地方ではなく奥州地方への進軍を選んだぐらいで、結果的に北条家の遺領を一気に獲得出来る権利を得ながら徳川家との交戦を促す、良い判断になりました。
 
 
 
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