■本能寺炎上 宇喜多家リプレイ
 
 大名:D 戦力:C 配下:D 地利:E 難易度:最上級
 
●戦力
・石高45 兵力57 所持金2400
 
 外様大名としては突出する戦力を有し、初手の謀反も可能ながら、そこは二大巨頭の羽柴家と毛利家の餌食になっても文句を言えない危険地帯。しかし、独立を先延ばしにしても現状を上回る環境は考えにくい。
 
●武将
・宇喜多秀家 軍事16 政治10 魅力 8 士気20 忠義18
・宇喜多忠家 軍事14 政治 4 魅力12 士気10 忠義23
・花房職之  軍事17 政治12 魅力 6 士気13 忠義13
・花房正成  軍事13 政治 4 魅力12 士気14 忠義16
・花房正幸  軍事10 政治 7 魅力10 士気11 忠義15
・長船貞親  軍事10 政治11 魅力 9 士気14 忠義15
・戸川逵安  軍事12 政治 4 魅力12 士気16 忠義12
 国富貞次  軍事 9 政治 2 魅力 6 士気 ─ 忠義12
・岡利勝   軍事11 政治17 魅力 4 士気12 忠義16
 
 大所帯かつ安定した実力。石高に対して面子過多で序盤から人員整理が一考も、宇喜多忠家と花房職之と岡利勝以外は大同小異だ。全体的に低からずも高からずの忠義には注意。
 
●外交
 東西南北に厄介な敵がひしめいて早期の隣家との同盟が生命線だが、謀反後即日の和睦はリロードに頼らねば困難。羽柴家と毛利家との関係が落ち着いても、長宗我部家・明智家・柴田家と相手は次々に現れる。
 
 
■1582年 夏
 
 高松城(美作)で謀反。石高は減少するものの兵力は維持されて、出発点には悪くない。軍備・政略フェイズでは徴兵で僅かながら軍事力を上乗せし、お隣りの毛利家に全力の誠意を見せる。こちらを優先する理由は、羽柴家は大量の武将を抱えた弊害で兵力の集中までに時間が掛かり、合戦での脅威度が低い為。政治12の花房職之に金500の進物を届けさせて友好を深め、政治17の岡利勝に同盟を提言させた。
 
岡利勝「毛利家とは親善な間柄、同盟を結ぶ事に何の障害もありませぬ」
毛利輝元「何をほざくか!」

 
 金1000は包むべきだったかと、非礼を反省。政治11の長船貞親に命じた羽柴家との交渉も鼻であしらわれ、早くも窮地に立たされた。作戦フェイズで草津城(安芸)に武将8・兵力105が配置されて手詰まりの感も漂うが、ここは先攻めに賭ける。更に、岡山城(美作)の武将4・兵力35を率いるのが羽柴秀吉本人なのを確認した上で、武将8・兵力57による侵攻も敢行。初っ端から互いの大名が真正面から激突した。
 この侵攻の目的は讃岐国に到着した羽柴軍の分断だが、意外に差のある兵力・盾を務められる武将が多数・敵大将が騎馬を編成の要素から、犠牲が出ても退却の選択肢を消すに値すると判断。軍団の最大兵力で10も劣ることに不安はあるも、騎馬の防御力減少効果で攻撃力を増した盾による削りは羽柴秀吉を徐々に疲労させ、後方の森に逃げ隠れた宇喜多秀家にやっとこさ追い付いた時には既に、羽柴軍唯一の有利は喪失していた。その間、別動隊が前線から遠く離れた武将3名も撃破して全滅も成立と、花房正幸の戦死と黒田官兵衛を討ち取ってしまったのは悔やまれるが、先攻めの成功と合わせて抜群の開幕となった。
 
■1582年 秋〜冬
 
 山陽地方に豊作。薄情者の羽柴軍は岡山城に裸同然で閉じ込められている主人への救出部隊を一切寄越さず、草津城の毛利軍も手薄になり宇喜多家は安泰。ただ、毛利家に同盟を要請しては断られ、然らばと明智家や長宗我部家にも使者を送るが以下同文と、全く成果が上がらない外交に焦りを感じ始める。
 
・河野家が滅亡しました。
・十河家が滅亡しました。
・森家が滅亡しました。
 
■1583年 春〜夏
 
 軍備・政略フェイズの順番が最初かつ、自城を攻められる気配が周囲に感じられない為、全軍団で岡山城を包囲。結果的には高松城に毛利軍の侵入を許してしまったものの岡山城を陥落させ、独立から一年で羽柴秀吉の切腹と美作国の統一を同時に果たせた。羽柴軍から投降した4名の武将は標準以下の能力しかない連中であるが、今後の盾候補として受け入れておこう。
 
・河尻秀隆が享年53、保科正直が家督を相続します。
・甲斐宗運が阿蘇家の家督を相続します。
・織田有楽斎が織田家信包の家督を相続します。
・羽柴秀長が羽柴家の家督を相続します。
 
■1583年 秋
 
 先程まで不可解なまでに冷静だった羽柴家の復讐の炎が遂に燃え盛るに至ったのか、岡崎城の奪還に武将13・兵力100を動員。石高が60に増加したとは言え当家は兵力76に過ぎず抵抗は困難、高松城を封鎖中の毛利軍や四国地方の三好水軍を打ち破れたとしても、その場凌ぎにしかならないだろう。知らず知らずの内に絶望的な苦境にはまり込んだ宇喜多家だが、苦し紛れに実行した金1000の進物と同盟要請が見事に実を結ぶ。
 
岡利勝「話の通じる相手ではござらぬ!」
羽柴秀長「羽柴秀長、同盟の儀しかと承った。ご案じめされい」

 
 復讐の炎はそんなに燃えていなかったらしい。
 
■1583年 冬
 
 相手構わず執拗に繰り返した同盟で手を組んでくれる相手がようやく見つかり、当面の安全が確保された。高松城は数度の兵糧攻めに持ち堪えられそうであり、また城レベルの低下で石高を奪われる状況でもない為、徴兵に専念しておく。また、今後の毛利家攻めで気に掛かる存在の長宗我部家と良き関係を築こうとするが、同盟はおろか進物すら拒否されてしまう。
 
・山岡家が滅亡しました。
 
■1584年 春
 
 兵力を三桁に乗せて野戦の準備が整い、高松城を攻め立てる武将3・兵力62の毛利軍を追い返すべく挙兵したところ、大雨に霞む戦場に予測の倍近くに当たる敵勢に布陣される失態を犯す。これは敵城包囲中の軍団を滅多に変化させない思考ルーチンを疑わず、前ターンの攻城戦情報を鵜呑みにしたのが原因。宇喜多秀家が手勢に劣りながらも小早川隆景に大戦果を食らわせ、全滅による完全勝利で武将5人を討ち取りはしたものの、自ら招いた苦戦で長船貞親の死亡を始めに余計な傷を負ってしまった。高松城の耐久度には1ターン分の余裕があったので、偵察を怠らなければ怪我も軽くなっただろうに。
 
・外様大名の稲葉家が滅亡しました。
 
■1584年 夏〜秋
 
 岡山城と高松城に必要最低限の守備隊を用意した上で余りの軍団が出たことから、総兵力が1万を割り領国の警戒が行き届かなくなっている毛利家統治下の出雲国へ密かに出張。東側は羽柴家と言う強固な防御壁に守られ、南側も長宗我部家と三好家の争いが泥沼化の今、西側に敵の少ない宇喜多家の優位性が窺える。
 
・外様大名の津田家が滅亡しました。
・織田家信孝が滅亡しました。
 
■1584年 冬
 
羽柴秀長が宇喜多秀家との同盟を破棄しました。
 
 先頃、羽柴家との同盟を妄信したが故に滅亡まで追い込まれた織田家信孝の轍を踏まないよう、持つもの持って機嫌買いに通う時だろうと考えた矢先の知らせに、呆然。とは言え、奇襲を受ければ勝機の無い力関係でもあり、与えられた束の間の平和と事前通告にはむしろ感謝すべきか。改めて進物と同盟の使者を送ってちゃっかりお金だけ取られてしまうが、幸いにも宇喜多家に向けられた敵意は大きくなく、美作国が侵蝕される心配は現段階に限っては無用。出雲国の出張部隊に反応を示してくれれば、羽柴家と毛利家が交戦する可能性も浮上した。
 
・池田恒興が死去、池田輝政が家督を相続します。
・遠山家が滅亡しました。
・外様大名の千葉家が滅亡しました。
 
■1585年 春
 
 隣接勢力の戦力順位は、羽柴家>毛利家>宇喜多家>三好家となっている。国境の緊張状態が崩れてからでは遅いので、徴兵も後回しに上記三家以外の周辺各国にまで無節操に同盟の申し入れを乱発するが、返ってくるのは激しい言葉のみ。ここまで外交で成果が出ないのも珍しい。
 前ターンには狙い通り、出張部隊が食らい付いていた米子城(出雲)を羽柴軍が強奪したが、落城には僅かに届かず。このまま放置すれば、羽柴家・毛利家・三好家に四方向から圧迫される展開が確定となる訳で、安易に羽柴家に渡すのは得策とは言えないだろう。出雲国に乗り込んだ敵勢は武将3・兵力45、しかも大将は羽柴秀長である。目の前にぶら下がる複数の美味しい餌を見逃す手は無く、先攻めを使わずとも余剰兵力で武将7・兵力64を編成出来る局面であったことも幸いし、宇喜多秀家にて米子城を強襲。家督相続を経て二度目の大名決戦は、前回と違わぬ結末となった。
 
・保科家が滅亡しました。
・木曽家が滅亡しました。
・羽柴秀次が羽柴家の家督を相続します。
 
■1585年 夏
 
 羽柴家配下の高山重友による謀反と、播磨国丸々を遣い物とした宇喜多家への降伏願いに、歓喜。忠義の低い外様大名が播磨国の中心に単独配置とは露知らず、不意の吉報に喜びは倍増である。先の家督相続で担ぎ出された羽柴秀次の最悪の魅力が高山重友の異図を決定付けたのかもしれず、自分の戦略の正しさを後付けで納得しておく。
 石高は60万石から111万石に膨れ上がり、昨日までは攻められないようにどうすべきか悩んでいたのに、今日はどこを攻めるべきかが悩ましい。第三者との争いにより毛利家と三好家も無防備を晒け出しており、この機会に弱体化著しい羽柴家を叩きのめしてやろうと全軍団を仕向けたが、新たに表面化した明智家や柴田家との兼ね合いや、行動順の巡り合わせに恵まれなかった問題もあり戦闘は自重。慌てて動く理由も見当たらず、緩手を指しても構わないだろう。
 
■1585年 秋〜冬
 
 前線を東に進めれば敵が増え、西に進めれば羽柴家が息を吹き返しそうで、南に進もうにも水軍力と資金が不十分と、どうにも指針が定められない。誰かしらと同盟を結べれば良き判断材料になるが、悲しい程に人気が無いのを思い知らされた。
 
■1586年 春
 
 初官位の兵衛督を叙任した影響か、数多の候補者から柴田勝家が同盟歓迎の意向を示す。宇喜多家・羽柴家・毛利家の兵力は150前後だが柴田家は既に350に達しており、最も味方になってもらいたい相手であった。こうなれば柴田家と背中を合わせる格好が得策だろうと、手始めに羽柴家の鳥取城(因幡)を取り囲んでおく。
 その後、休戦を放棄した毛利軍に高松城を狙われたのはともかく、一度の兵糧攻めに耐えられる城レベルだったにも拘らず、滅多にやらない力攻めを強行される不幸が押し寄せた。謀反や外交で得た利益の代償を一気に支払った気分になり、好事魔多しか。
 
・外様大名の毛利家秀頼が滅亡しました。
 
■1586年 夏
 
 美作国の勢力混在化で石高に大損失を被るも、大名直轄領が20万石を下回ったり兵力が削がれたりの実害は及ばず。また、宇喜多軍の因幡国封鎖と柴田軍の丹後国侵攻により、宮津城(丹後)に羽柴軍の武将17・兵力118を閉じ込める形になっている。ここは是が非でも羽柴軍の鳥取城への脱出を阻止して柴田軍に協力したいが、美作国の再統一を優先させた宇喜多軍に力添えの余裕は残らなかった。頼りない味方で申し訳無い。
 
・池田輝政が三好家の家督を相続します。
・池田家が滅亡しました。
 
■1586年 秋〜冬
 
 高松城は大した血を流さずに奪還出来たものの、兵力三桁以上を死守し続ける明智家の全軍団が宇喜多家と柴田家の間に挟まる等して、先攻め必須で防戦中心の展開を変えられない。羽柴軍との戦いでは鳥取城から押し返すも、尼崎城(摂津)からは押し返されるくらいだ。
 
■1587年 春
 
 開始から5年経過した宇喜多家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高133 兵力201 所持金89
 
 領国は美作国・播磨国・因幡国。柴田家との同盟の成果で東側での争いは近日中に終止符が打たれる予定で、そうなればお隣りの毛利家からごっそり土地を頂戴出来る。現在は収入源の確保に難があるが、将来的には安芸国と石見国の高い鉱山値が解決してくれるだろう。色々な難儀に遭遇したものの、リロードも再スタートも未使用でこの状況に落ち着いて、なかなかの立ち上がりだった。
 
●武将
・宇喜多秀家 知行45 兵数40 忠義 ─
 堀尾吉晴  知行 0 兵数 1 忠義17
 国富貞次  知行 1 兵数 2 忠義20
 宇喜多詮家 知行 1 兵数 2 忠義19
・宇喜多忠家 知行21 兵数32 忠義25
 丹羽長秀  知行 1 兵数 3 忠義21
・花房職之  知行21 兵数38 忠義23
・花房正成  知行 2 兵数 5 忠義22
・戸川逵安  知行 1 兵数 2 忠義11
・岡利勝   知行21 兵数40 忠義25
・高山重友  知行18 兵数36 忠義22
 
 堀尾吉晴はかつて羽柴秀吉の死でせしめた者たちの生き残り、宇喜多詮家はこの春に元服、丹羽長秀は寝返りにより最近加入した。未だ知行を皆に分配する程の豊かさを持ち合わせていないが、ほとんどの武将が忠誠を誓ってくれているのは心強い。彼らの辛抱に応えられる日も近いか。
 
●大名家
・北条家   石高138 兵力165 敵対:滝川
・滝川家   石高101 兵力119 敵対:北条
・徳川家   石高124 兵力155 敵対:織田信雄
・柴田家   石高295 兵力458 敵対:上杉 明智 羽柴
・毛利家   石高176 兵力189 敵対:宇喜多 長宗我部 龍造寺
・長宗我部家 石高105 兵力173 敵対:毛利
・島津家   石高106 兵力174 敵対:龍造寺
 
 成長競争から抜け出したのは柴田家のみ。この5年は序盤の弱小勢力の淘汰から、中盤の勢力間の再編に段階が進まなかったのが全国的な傾向で、石高100以下ながら兵力100以上を確保する大名も上杉家・明智家・羽柴家・龍造寺家が健在。普段なら中央と西を容易に制覇する羽柴家と毛利家を、当家が少なからず引っ掻き回せた影響だろう。
 
 
 またまた高松城が兵力113の毛利軍に攻撃されるが、撤収準備中の城兵が適度に刃を交えて城レベル12を一気に貫かれる可能性だけは消しておく。陽動担当の丹羽長秀が戦死したのは必要経費、今度は力攻めもされず最悪の事態は免れた。
 
■1587年 夏
 
 数多の攻防が繰り広げられた高松城に毛利輝元の命が散り、丹後国に逃げ帰った羽柴軍主力は柴田軍が始末を終え、宇喜多・柴田連合に対抗を挑める外敵の排斥を完了。ただ、毛利輝元以下3名の討ち死にを確定させるには一苦労があり、遠く離れた山の最奥に佇む敵部隊を倒しに行くまで手加減せねばならなかった分、被害も少なくない。明智家の関心は柴田家の空城に移った様子で、がらんどうにした因幡国と兵力2で囲んだ八上城(丹波)も安泰だった。
 
・外様大名の中川家が滅亡しました。
・外様大名の蒲生家が滅亡しました。
・島左近が羽柴家の家督を相続します。
・吉川広家が毛利家の家督を相続します。
 
■1587年 秋〜1588年 春
 
 島家は武将2・兵力80に、吉川家は武将3・兵力82に、武将9・兵力98の明智家はその大半が柴田軍の虜同然と、次々に周辺勢力が没落してくれているが、毎ターンの収入が1000程度の現実は進軍の足を踏み止めさせるのに十分な不安材料だった。安芸国に上陸した長宗我部家への対策に高松城普請の予算まで必要となり、この間に仕掛けた戦いは月山富田城(出雲)のみである。
 毛利家と長宗我部家の交戦について、余談を短く。作戦フェイズで海を挟んで睨み合っているのを確認後、次ターンの軍備・政略フェイズで双方の順番が回る前に位置関係を確かめると、毛利軍は隣りの城に移動しているが長宗我部軍は元いた城から動いていなかった。これは長宗我部軍の侵攻→野戦で毛利軍が退却か潰走→攻城戦で長宗我部軍が退却したと考えられて時折見掛けるが、プレイヤーへは絶対に行わないのだろうか。
 
・里見義頼が享年39、北条高広が家督を相続します。
・筒井順慶が死去、筒井定慶が家督を相続します。
・鈴木佐大夫が享年59、雑賀孫一が家督を相続します。
・龍造寺隆信が享年59、龍造寺家就が家督を相続します。
・木村吉清が明智家の家督を相続します。
・上杉家が滅亡しました。
 
■1588年 夏
 
吉川広家が柴田勝家の軍門に下りました。
 
 ここ一年、筒井家や蘆名家や相馬家が我先にと柴田家に降伏していたと言う予兆があったにしろ、羽柴秀長に同盟を破棄されて以来の呆然。中国地方の大部分は柴田家の所領に組み込まれ、月山富田城の包囲軍も渋々ながら引き上げである。その後、腹立たしさを紛らわせる為か草津城の長宗我部軍を追い払おうとするのだが、この場は彼らに旧吉川領を荒らさせるのが正しい戦略のはずで、予定の狂いが気の迷いまで生じさせていたらしい。宇喜多軍の到着より先に長宗我部軍が亀尾城(長門)に攻め入り、追い払い作戦が未遂に終わったのは大助かり。
 
■1588年 秋〜冬
 
 東西の前線は摂津国と長門国まで伸びる。長門国の長宗我部軍は大友軍が籠城させたところを横取りする形になり、長宗我部元親の切腹をこの目で見届けさせてもらった。
 
・大友宗麟が享年59、大友義統が家督を相続します。
・香宗我部親泰が長宗我部家の家督を相続します。
・外様大名の筒井家が滅亡しました。
 
■1589年 春〜冬
 
 同盟と言う名の進路妨害に負けず本州最西端の国まで到達したのは良いが、領地は増えど貧乏が一向に改善しない宇喜多家にとって、九州地方への渡海は夢のまた夢。そこで近畿地方の海岸線を制圧してから、普請済の城に香宗我部家の全軍団を四国地方から誘い出し、一網打尽にする計画を練る。香宗我部家は既に近畿地方には上陸しており、上手くいけばもっと簡単に滅亡させられるかもしれない。他には、仕官してきた黒田長政(軍14政14魅10)の重臣抜擢や、石高4・兵力9の大友家に対する水軍力目当ての降伏勧告を行った。
 
花房職之「生かすも殺すも殿次第でござる」
大友義統「宇喜多づれが、片腹痛いわ!」

 
 他家で起きた事件に目を移すと、柴田家の版図が急速に広がる中で、猪苗代盛胤が蘆名家の家督相続と同時に謀反を決行したのには拍手である。石高13・武将1・兵力7にレベル28の黒川城(南陸奥)と砂粒程の元手で天下を狙う、その立派な反骨精神は是非見習いたい。
 
・北条家高広が滅亡しました。
・織田家信雄が滅亡しました。
・外様大名の木村家が滅亡しました。
・細川忠興が島家の家督を相続します。
・滝川忠征が滝川家の家督を相続します。
・蘆名盛隆が死去、猪苗代盛胤が家督を相続します。
・龍造寺家就が享年69、鍋島勝茂が家督を相続します。
・外様大名の宇都宮家が滅亡しました。
・佐竹義久が佐竹家の家督を相続します。
・外様大名の真田家が滅亡しました。
・滝川一時が滝川家の家督を相続します。
・外様大名の甲斐家が滅亡しました。
・大友家が滅亡しました。
 
■1590年 春
 
 最も楽な手順での全滅にはならなかったものの、香宗我部親泰を討ち取りつつ堺城(和泉)を確保。この城は重要な拠点となる。
 
・外様大名の佐竹家が滅亡しました。
・長宗我部信親が香宗我部家の家督を相続します。
 
■1590年 夏〜秋
 
 長宗我部家全滅作戦実施時の布陣を以下に記すと、宇喜多家軍は堺城に武将13・兵力277を、長宗我部軍は勝瑞城(阿波)に武将3・兵力116と和歌山城(紀伊)に武将1・兵力40を、また細川軍の武将1・兵力40が信貴山城(大和)にいる。ここから宇喜多家軍を和歌山城と信貴山城の二手に分けて堺城を無人とし、勝瑞城から海を経て赴いた長宗我部軍を招き入れておく。侵攻先の城は多少の無理を押し通して速攻で落とし、次のターンに退却はされないが数的に有利な軍勢を編成して堺城に舞い戻り、長宗我部軍を一部隊ずつ料理すれば作業は完了。行動順が理想的だったこともあり、作戦は滞りなく遂行された。
 
・長宗我部家が滅亡しました。
・猪苗代家が滅亡しました。
・細川家が滅亡しました。
・外様大名の鍋島家が滅亡しました。
 
■1590年 冬〜1591年 夏
 
 四国全土が宇喜多家色に染まり上がり、石高が435万石に到達した時には順風満帆だと思われた。しかし、時同じくして柴田家の内部に不穏な空気が流れ始める。まずは柴田勝家が息を引き取り、次に家督相続で一族が途絶え、更に北陸地方で宮部継潤による大規模な謀反が発生。新しい当主とも良き関係を継続したい宇喜多家にとっても、攻城戦の最中だった紀伊国の雑賀家を傘下に受け入れられて和睦を余儀無くされ、逆に宮部継潤からの降伏願いには拒絶せざるを得ないと、直接の不利益があった。
 そのような異変の前兆を感じる出来事が併合して出された結論なのか、同盟は突如として反故にされてしまう。不意を突かれた格好になったのはともかく、具合が悪いのは九州地方の覇者である島津家との開戦が重なったこと。島津家は総兵で宇喜多家にやや勝り、一点集中突破を狙われてはまともに応戦するのは難しい。実は中国地方の柴田領を飲み込んでもらおうと意図的に本州へ流入させたのも事実で、単に邪な心を見抜かれての必然の展開と言えなくもなかったりする。
 
・柴田勝家が享年69、佐久間盛政が家督を相続します。
 
■1591年 秋
 
 島津軍の進軍速度を少しでも削ぐ為、安芸国の入り口に一人居残り防御壁を築いた岡利勝。厳島の戦いが山籠りの戦法に打って付けの山に覆われた地形で、もしかすると端に固まれば時間切れまで粘れるかもしれないと、敵影が見えても素直に退却しなかったのは大失敗だった。その愚考を真っ先に咎めに来たのは島津家久で、過ちに感付き退却宣言をした岡利勝に当方の想定以上の移動力を発揮して追い付き、軍事23と騎馬隊が合算した凄まじい破壊力は150%の地形効果を物ともせず、兵力40を一瞬で壊滅。これはもう、死ななかっただけマシである。
 
・外様大名の雑賀家が滅亡しました。
 
■1591年 冬
 
 前回のシナリオ3リプレイで大名の寿命に幾度と足枷をはめられた柴田家は、今回もその不幸に付き纏われているらしい。度重なる代替わりが家臣団に不協和音を奏で始めた。
 
・佐久間盛政が享年39、原長頼が家督を相続します。
 
■1592年 春
 
 開始から10年経過した宇喜多家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高402 兵力420 所持金27
 
 常駐兵力を4万の大台に乗せたものの、島津家の破竹の勢いを止めるには十分でない。一時減少した石高は損失分を原家の領地から補填している最中で、所持金も現在は尽きているが金欠の悩みは解消済である。
 
●武将
・宇喜多秀家 知行74 兵数40 忠義 ─
 国富貞次  知行30 兵数40 忠義25
 宇喜多詮家 知行30 兵数40 忠義25
 後藤基次  知行 0 兵数 1 忠義11
 岡本良勝  知行 0 兵数 1 忠義 5
・宇喜多忠家 知行36 兵数40 忠義25
 福留儀重  知行27 兵数32 忠義23
・花房職之  知行36 兵数40 忠義25
・花房正成  知行33 兵数39 忠義25
・戸川逵安  知行33 兵数40 忠義24
・岡利勝   知行36 兵数27 忠義25
・黒田長政  知行33 兵数40 忠義25
・高山重友  知行33 兵数40 忠義25
 
 宇喜多軍の主力を務めるのは、軍事17の花房職之。そして、これより真っ向から迎え撃たなければならない島津軍の顔触れと軍事は上から、島津家久(23)・島津義弘(22)・島津義虎(21)・山田有信(19)・新納忠元(18)・島津忠長(18)・島津豊久(18)・島津義久(17)・頴娃久虎(17)・島津歳久(16)・伊集院忠棟(15)・五代友喜(14)と、恐ろしく猛々しい面々がずらりと並ぶ。先程の岡利勝が遭遇したような事故を防ぐ為に、合い駒として使い捨ての出来る武将が欲しいところだが、どこからか供給されないだろうか。
 
●大名家
・北条家 石高356 兵力324 敵対:原
・徳川家 石高165 兵力213 敵対:原
・原家  石高758 兵力628 敵対:北条 徳川 宇喜多 島津
・島津家 石高348 兵力473 敵対:原 宇喜多
 
 原家は他家に決定打を与えられないまま内部から崩壊の兆しを見せ、北条家・徳川家の盛り返しが目立つようになってきた。尚、奥州地方では安東家・南部家・伊達家が細々と共存中で、世知辛い戦国の世の片隅で自分たちなりの平和を満喫している。
 
 
 島津軍の猛攻を一身に受け止めた草津城が稼いだ2ターンの猶予で、前線の城の強化や東側の空城攻めが行えた。
 
・外様大名の葛西家が滅亡しました。
 
■1592年 夏
 
 序盤から政務と外交に東奔西走の毎日を送らせたのが祟ったのか、はたまた島津家久の突撃に負わされた深手の後遺症か、宇喜多家を代表する文官として名高い岡利勝が急逝。ただでさえ武将と兵力不足に困っている時に痛い仕打ちだが、そんな事情を慮ってくれる島津家などどこにもいない。また、葛西家を滅ぼしたものの小野寺家の裏切りが起きたらしい伊達家より救援を求められ、現地の状況をいまいち掴めず迷いながらも承諾している。
 
■1592年 秋
 
 兵力が50にも満たない伊達家とて、伊達輝宗を筆頭に伊達政宗・伊達成実・亘理元宗・片倉景綱他の主要一族・重臣が全員生存しており、原家とも休戦状態で軍門に下らせて損は無かったようだ。ただし、全15人に及ぶ武将たちの面倒を見るには膨大な資金と土地が必要になる為、使えぬ者は処分及び去る者は追わずの精神で管理することにした。早速、九戸政実に別れを告げられている。
 前線の様子としては、島津家の全軍が高松城の攻略に躍起になっている隙に、美作国内の防衛線を整えつつ旧毛利領で意外に生き長らえた吉川軍を潰しに出向いている。島津家滅亡後の遺領配分を睨む見地からの選択だが、場合によっては島津軍の注意がそちらに逸れてくれるかもしれず、少し早まったか。
 
・安東家が滅亡しました。
 
■1592年 冬〜1593年 春
 
 常に全軍団を一塊にして猪突猛進する手法でこちらの対応を困難にしてきた島津軍が、ようやく軍団配置を分散してくれるようになった。こうなれば総兵力に劣る側でもその場その場で有利な野戦に臨め、敵武将を連鎖的に始末出来る。ちなみに、岡利勝の遺志を受け継いで威風堂々と仕官した岡家利(軍6政4魅4)なる人物がいたが、初陣で島津義久に仕留められる見事な潔さを発揮した。無能故の悲劇である。
 
・伊達輝宗が死去、伊達成実が家督を相続します。
・島津家久が島津家の家督を相続します。
・外様大名の吉川家が滅亡しました。
・島津義弘が島津家の家督を相続します。
 
■1593年 夏〜秋
 
 半年間に4度の野戦で勝ち名乗りを上げた宇喜多軍の兵力は488から314に、島津軍の兵力は526から203に推移して立場が逆転。また、西に押し返されていた原家との国境線で宮部継潤が再度挙兵し、配下2人と兵力69を引き連れて宇喜多家に馳せ参じてくれたのもありがたい。とは言え、旧柴田家から謀反→宇喜多家に降伏失敗→旧柴田家に降伏成功→旧柴田家から謀反→宇喜多家に降伏成功と、懐に置くには世渡り上手過ぎる輩でもある。とりあえずは500の褒美で忠義を上げておき、様子を窺ってから処遇を決めよう。
 
宮部継潤「殿に忠誠を誓いまする」
 
・外様大名の最上家が滅亡しました。
 
■1593年 冬
 
 九州地方にぽつんと取り残されているのが気掛かりだった旧毛利領の門司城(豊前)へ、宇喜多軍に反撃の狼煙を上げられず手持ち無沙汰になった島津軍が包囲に向かってくれた。お蔭で軍船建造費を一銭も払わないで済みそうだ。
 
■1594年 春
 
 九州地方から水路が繋がる三つの堅城に島津軍が攻め込むのを待つ間、暇な時間を活用しようと原家領地の方角に大名を含む武将4・兵力136を動員すると、対抗措置として武将4・兵力152を宛てがわれた上に侵攻までされてしまう。差は僅かで挽回も可能だろうし、いざとなれば大将部隊への集中攻撃で凌げばと高を括って受けて立ったのだが、自分から移動すると袋叩きに合う絶妙な位置に陣取られるわ、前方に躍り出て孤立した敵部隊に掛かり切りになる隙に脇腹を突かれるわで、混乱の余り戦術から一貫性が欠けて自滅。時が進むに連れ兵力差は縮まっていくものの、背後に備えて無傷を保った敵将により本陣を総崩れにされては、兵力4で何とか踏み止まった宇喜多秀家を後方へ匿うように逃がした際に、死を覚悟するのも止むを得なかった。
 その後に即、20の士気値と小勢の部隊が2つ残る敵の弱点を突いて場を収められたものの、途中から降り出した雨の影響か宇喜多軍に接した敵将が攻撃を躊躇ったのと、兵力26の大戦果で兵力14を一瞬で撃退する2つの幸運に恵まれた、偶然の産物である。士気値減少のルール上、小勢の部隊が先に自滅すれば勝利条件は満たせなかった訳で、最終ターンはまさに綱渡りの連続。教訓、危ない橋は渡らないこと。
 
■1594年 夏〜冬
 
 首尾よく罠に落ちた島津家を手早く片付け、西日本の争乱に終止符を打った。907万石の石高は657万石の原家を抜いて最大勢力となり、見事に仕事を成し遂げた家臣たちを労うべく、伊達家を除いた全配下に大幅な加増を施す。ちなみに、忠誠を誓ったはずの宮部継潤は挙動不審甚だしく、対島津戦にて使い潰した上で軍団ごと抹消している。
 
・島津忠長が島津家の家督を相続します。
・太田長知が宮部家の家督を相続します。
・外様大名の太田家が滅亡しました。
・島津家が滅亡しました。
 
■1595年 春〜夏
 
 東日本の支配分布は左から、石高677・兵力631の原家、石高181・兵力341の徳川家、石高300・兵力57の北条家、石高12・兵力24の南部家となる。宇喜多家の総兵は683と上々の数値だが、この三分の一が北陸奥国で悠々自適に暮らす伊達軍の編成であり、原家とは小〜中規模の合戦を複数回こなして決着を付けたい。ここまで来れば守るべき領地は無いに等しく、不利な戦いを仕掛けられればさっさと退いて、透かさず別の場所で有利な戦いを仕掛け返すだけである。
 
・外様大名の相馬家が滅亡しました。
・外様大名の小野寺家が滅亡しました。
 
■1595年 秋
 
 継続的に与えた手厚い保護により兵力283まで成長した伊達軍が、満を持して始動。まずは眼前の南部家に共闘を提案する。
 
伊達政宗「南部信直が我らの軍門に下るも、もはや時間の問題」
南部信直「是非もなし」

 
 お互い長い時間見つめ合っていた分、相互理解も早かったのか即答だった。南部家には伊達家から逃亡した九戸政実と大崎義隆が匿われており、二度と同じ過ちを繰り返させまいと檜山城(出羽)攻めにて両名を葬ったが、その割を食って道連れにされた鮭延秀綱は気の毒である。
 
・外様大名の織田家有楽斎が滅亡しました。
 
■1595年 冬
 
 春には武将3・兵力120を、夏には武将4・兵力82を、秋には武将1・兵力40と武将3・兵力44と武将4・兵力64と武将3・兵力81と武将1・兵力40を刈り取った。広く浅い兵力運用が祟った原家は短期間に武将11・兵力66にまで落ちぶれており、引き算が合わない分は徳川家の奮戦によるものだろう。その徳川家と当家の攻防も、桑名城(伊勢)を舞台に火蓋が切られている。
 
・外様大名の妻木家が滅亡しました。
・外様大名の氏家家が滅亡しました。
 
■1596年 春〜夏
 
 宇喜多軍約8万に対して徳川軍約3万と組み伏せるのは楽勝かと思われたが、戦意の欠片も無い鳥居元忠を大将にされるわ、徳川家康を含む武将11・兵力192を全滅出来るはずが一手違いで潰走になってしまうわと、敵側の士気値に泣くばかりの半年間に。現在の敵影は美濃国と尾張国の他、奥州地方に原軍の僅かな生き残りが見られる。
 
■1596年 秋〜冬
 
 那古屋城(尾張国)の占領で徳川軍本隊は東海地方への帰路を失い、これで厄介な士気値に悩まされず物量で力任せに圧倒して構わない。余所では北陸奥国統一のついでに原長頼を討ち取り、北条氏政は宇喜多家と関わらないまま寿命を迎え、総仕上げの様相が色濃くなってゆく。
 
・加藤貞泰が原家の家督を相続します。
・北条氏政が享年69、北条氏盛が家督を相続します。
・藤堂高吉が加藤家の家督を相続します。
・宮部長煕が藤堂家の家督を相続します。
 
■1597年 春〜夏
 
 何の憂いも無い余裕の情勢かと思いきや、原長頼の死に端を発した旧柴田家を巡る騒動のせいか、甲斐国にて百姓一揆が続発。北条家・徳川家・宮部家の合計兵力が150まで低下した最終盤に、面倒な事態を自ら引き起こしてしまった。広大な所領を無難に統治している大名を必至に追い込んだ際には、跡継ぎが一揆を止められない可能性を考えるのが正しい。
 四方を囲まれ手勢も数える程になった徳川家康は往生際悪く、珍しいことに鉄砲隊を組織して宇喜多軍を驚かせる。少数ながら絶大な防御力で徹底抗戦され、大垣城(美濃)を彼の墓場にするのは骨が折れる作業であった。東海地方の留守を預かったことで一人難を逃れた酒井忠次は、宮部家の庇護を受ける道を選択。仲良く零落した勢力同士で頑張るつもりらしい。
 
・酒井忠次が徳川家の家督を相続します。
 
■1597年 秋
 
 宮部軍は自棄になったのか北条軍との小競り合いを今更再開し、北の地で開拓に勤しむ宇喜多軍もその動きに乗じて北条家と培った友好関係に決別した。
 
・稲富祐直が宮部家の家督を相続します。
・外様大名の酒井家が滅亡しました。
 
■1597年 冬〜1598年 春
 
 街路が複雑な関東地方を好き勝手に荒らしては逃げてゆく稲富軍と北条軍は、兵力過剰で小回りの利かない伊達軍と南部軍には非常に捕らえにくく、つまらない相手に翻弄される内に百姓一揆が周辺に拡大。困り果てて駄目元で両家に、頼むから大人しく服属してくれないかと相談に出向いてみた。
 
伊達政宗「北条氏盛が賢明なれば降伏して参るでしょう」
北条氏盛「痴れ者が!北条が屈すると思ったか!」
 
花房職之「それがしにご下知くだされば攻め滅ぼしてご覧にいれまするが‥‥」
稲富祐直「宇多喜づれが、片腹痛いわ!」

 
■1598年 夏〜冬
 
 右方では稲富軍との鬼ごっこを終了させ、左方でも一揆の鎮圧にほぼ成功。武将1・兵力40の北条軍が雪に埋もれつつ、各所で蜂起した百姓たち最後の砦となった小諸城(信濃)を包囲した形で、春の到来を待ち詫びる。
 
・稲富家が滅亡しました。
 
■1599年 春
 
 天下統一を間近に控えた宇喜多家の状況。
 
●戦力
・石高1663 兵力800 所持金94649
 
 仕上げ段階からは効率の悪い攻め筋で手数ばかり多くなり、終了年度と最終石高の数字もそれに比例して大きくなってしまった。
 
●武将
・宇喜多秀家 知行947 兵数40 忠義 ─
 国富貞次  知行40  兵数40 忠義20
 宇喜多詮家 知行40  兵数40 忠義25
・宇喜多忠家 知行55  兵数40 忠義24
・花房職之  知行55  兵数40 忠義22
 島津久保  知行40  兵数40 忠義25
・花房正成  知行50  兵数40 忠義25
・戸川逵安  知行50  兵数40 忠義22
・黒田長政  知行45  兵数40 忠義25
・高山重友  知行50  兵数40 忠義25
・伊達成実  知行33  兵数40 忠義25
 伊達政宗  知行30  兵数40 忠義25
 小梁川盛宗 知行27  兵数40 忠義25
 後藤信康  知行27  兵数40 忠義25
 白石宗実  知行27  兵数40 忠義25
 留守政景  知行27  兵数40 忠義25
 片倉景綱  知行27  兵数40 忠義25
・南部信直  知行33  兵数40 忠義25
 南部利直  知行30  兵数40 忠義25
 南部信愛  知行30  兵数40 忠義25
 
 東と西の二面作戦が実行された訳だが、本隊を上回る規模に肥大したせいで敵を刺激しては逃げられるばかりの伊達軍と南部軍は、徒に決着を引き延ばした犯人でもある。伊達家の武将を思い切って整理すれば改善されると理解していても、極少の知行で放置しても裏切る素振りを見せない彼らの忠誠心に胸を打たれては、ついつい指が滑って加増してしまったのも止むを得ない、と思う。水面下で不満を募らせている宇喜多家重臣団も見習って欲しい。
 
 
 小諸城に通じる街路は三つとも確保済みで、あとは近隣に集結させた武将20・兵力800の全軍団で北条軍と百姓一揆を一緒くたに圧し潰すのみ。暇もあれば金もあるし、朝廷工作でもしてみよう。
 
伊達政宗「朝廷の覚えが薄い我が宇喜多家に叙位がなされる訳がござらん」
 
宇喜多秀家は朝廷より関白太政大臣の官職を賜りました

 
 朝廷からの届けに花を添えられ、天下統一事業は完遂を迎える。
 
・北条家が滅亡しました。
 
 
1599年 春
 
宇喜多秀家は天下人となった。
 
 
■あとがき
 
 かつての経験で初手を何度もやり直さないと滅亡を回避出来なかった記憶があり、途中のリロードはともかく数回の再スタートは必須になるだろうとの心持ちで開始したところ、どちらのお世話にもならずにクリアまで漕ぎ着けられました。それはそれで達成感のある嬉しい結果なものの、リプレイ用の素材としては少々残念な出来でしょうか。前半に絶妙なタイミングでの同盟成立・同盟破棄・降伏による、プレイヤーへの禍福の数々が変化に富んだシナリオを用意してくれた反動か、後半は一転して徴兵と侵攻を繰り返すだけの退屈な作業の連続になってしまい、終わりに近付くに連れてはしょって綴らざるを得ない部分が増えたことがその理由です。本当であれば中盤以降、プレイ時間短縮とリプレイ栄えする経過の両立を目指し、島津家を滅亡させてからは内政に徹して時間を潰し、東日本の制圧を任せた柴田家と天下分け目の一大決戦を演出する計画だったのに、あっさりと同盟が反故にされた時点で諦めるしかありませんでした。自分の描く予想図通りに事を運ばしてくれない、優秀な思考ルーチンには改めて感心させられます。
 全体を振り返ると、どの相手にも退路遮断を用いずに正攻法で戦略的勝利を収めてはいますが、行動順や敵勢力の侵攻ルート等の不確定要素に助けられた局面は度々あったので、シナリオ3における宇喜多家の攻略手順としては再現性に欠けるかもしれません。謀反から天下統一までの間に発生したイベントの中で、その後の展開に与えた影響度が最も高かったであろう、1585年に起きた高山重友の謀反は特にそうですね。この一件には余談があり、彼は奇遇にもプレイヤーの地元に縁の深い武将だったりした為、個人的な思い入れを全然持っていない分際で、何かしらのご利益かと妄想。史実に基づいたゲームならでは体験でした。
 
 
 
▲前のページ 次のページ▼
 
■メニュー ⇒トップページ