■本能寺炎上 長宗我部家リプレイ | |
大名:A 戦力:D 配下:D 地利:E 難易度:上級 ●戦力 ・石高51 兵力61 水軍力5 所持金3200 万能な大名・及第点の配下・一定の石高を与えられても、本作の魔窟──攻守に不利かつ不毛の土地な四国地方を出身地にされては台無しで、CPU担当で西日本の覇者どころか第三勢力になる確率の限りなき低さが境遇を表している。しかし、プレイヤーなら運に頼らない戦略で天下統一も困難でないし、全シナリオに登場する長宗我部家の中で圧倒的簡単なのも確かだ。 ●武将 ・長宗我部元親 軍事15 政治17 魅力11 士気18 忠義 ─ ・福留儀重 軍事12 政治 6 魅力11 士気14 忠義18 ・桑名一孝 軍事13 政治 2 魅力 6 士気10 忠義15 ・長宗我部信親 軍事14 政治 8 魅力19 士気13 忠義23 吉田康俊 軍事12 政治 8 魅力12 士気 ─ 忠義17 ・久武親直 軍事11 政治10 魅力 5 士気16 忠義12 ・香宗我部親泰 軍事14 政治14 魅力15 士気10 忠義23 ・香川親和 軍事 6 政治 8 魅力 6 士気12 忠義23 悪くない。むしろ良い。これだけの堅実な人材が揃っても地利が足を引っ張るどころか引き千切るので、全然頼もしくはない。 ●外交 強豪の羽柴家・毛利家に蓋をされ、中堅の大友家・織田家信孝に挟まれ、未だに四国地方は弱小諸大名が乱立していて、見た目以上に厳しい。数百年前の大名に文句を言えるなら、1582年とあらば四国地方統一はしておいて欲しかった。羽柴家・毛利家と三国同盟が成立し易いのは花丸ながら、小競り合いの盛んな土地柄なので不可抗力の同盟破棄が付き物な一面もあり。 本作中では平均的難度の為、開幕最善追求禁止&ノーリロード縛りとしました。 |
■1582年 夏 | ||||||||||||||||
戦況を素直に見れば、国盗りものでは鉄則の「地図の端を背負う」を念頭に、羽柴家・毛利家と同盟して九州地方を目指すべきだが、現在位置の四国地方も含めて台風による不利益が勘弁ならず、ノーリロード用の戦略を試す。四国地方を完全放棄し、石高豊かで天災の危険性も低い近畿地方に移住するのだ。我が軍の戦力は成功させるにギリギリの数値とは言え、最序盤は駄目なら再挑戦すれば良いし。 勝瑞城(阿波)に全軍団を集結。政治力の上位2名は行動済になってしまうので、城内の長宗我部信親・吉田康俊に外交を任せる。 長宗我部信親「おやめくだされ!話の通じる相手ではござらぬ」 毛利輝元「何をほざくか!」 吉田康俊「羽柴がのってくるかどうか‥‥甚だ疑問でござる」 羽柴秀吉「軍勢をおして参られよ。この秀吉いつでもお相手いたす!」 当然として十河家・河野家から城攻めを受けるが、捨て石なので気にしない。 | ||||||||||||||||
■1582年 秋 | ||||||||||||||||
再度の同盟希望届を。冬から敵城攻めに勤しみたい為、ここで成立しなければ困る。 長宗我部元親「毛利と結ばねば我が長宗我部家が危うい」 毛利輝元「何をほざくか!」 香宗我部親泰「それがしにはこのような大役、勤まりませぬ」 羽柴秀吉「共に天下を分かち合いましょうぞ」 一勝一敗でも満足。羽柴家と共闘したい場合は、是が非でも大和国まで突っ走らなければ進路を閉ざされてしまう点に留意する。 第一目標の堺城(和泉)は、本来なら織田家信孝の高い水軍力が立ち塞がるが、今回は空城を筒井家が包囲しており、壁の水軍力は0=1だ。これなら圧勝確実…なんて罠に引っ掛かる私ではない。水軍戦は理不尽な程に乱数の偏りが酷く、相手が0でも勝利を確定したいなら31が必須。ただ、最序盤だけに妥協を少しは受け入れ、金3000を投じて20に留めておく。筒井包囲軍は武将1・兵力31と、現状の当家では徴兵しないと厳しい相手でもあるし。以下、水軍戦の結果。
まるで捏造みたいな接戦に。 野戦では隣接支援効果と徴兵の恩恵で元親の大戦果が炸裂し、危な気なく勝利。攻城戦では2度の力攻めで吉田康俊と香川親和が戦死するも、次への布石に必要な犠牲だった。尚、勝瑞城を攻められては再上陸を求められた時に面倒なので、三好家対策に守備兵は置いておく。 ・島左近が筒井家の家督を相続します。 | ||||||||||||||||
■1582年 冬〜1583年 夏 | ||||||||||||||||
四国地方脱出と共に和泉国の沃野を奪取し、和歌山城(紀伊)を落としたばかりの織田家信孝軍を粉砕し、有能な丹羽長秀が家臣入りし、同盟国の羽柴家に先んじて信貴山城(大和)へ侵攻し、序盤の山々を乗り超えられた。しかし、前述のように岡豊城(土佐)を包囲中の十河軍に羽柴軍が反応してしまい、岡豊城の兵糧攻めで同盟決裂…とは何故かならず。進物を一度も贈っていないのに、流石に後の天下人は貫禄がある。ただし、包囲は継続なので秋には手切れだろう。 ・堀内家が滅亡しました。 ・島家が滅亡しました。 ・外様大名の津田家が滅亡しました。 ・毛利家秀頼が滅亡しました。 ・十河家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1583年 秋〜1584年 春 | ||||||||||||||||
予想通り、羽柴家との大名関係は同盟から険悪に変わってしまった。駄目元で仲直りを求めよう。どうか奥歯に剣を隠していませんように。 長宗我部元親「わし自らが同盟の使者を勤めよう」 羽柴秀吉「羽柴秀吉、同盟の儀しかと承った。ご案じめされい」 流石に後の天下人は貫禄がありまくる。決して揺らがない羽柴家との互恵関係を再確認し、我が軍は大和国と紀伊国の平定に邁進したい。 ・山岡家が滅亡しました。 ・大友家が滅亡しました。 ・佐々家が滅亡しました。 ・稲葉家が滅亡しました。 ・外様大名の森家が滅亡しました。 ・遠山家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1584年 夏 | ||||||||||||||||
羽柴秀吉が討ち死にしました 波乱は明智家の仕業で、羽柴家の大名の魅力が25から1への超大暴落となり、内部崩壊の序曲が聞こえる。おまけに、よく見れば羽柴家と毛利家が既に仲違いしており、羽柴家に終盤まで後ろ盾を任せるのは無理そうだ。 ・鈴木家が滅亡しました。 ・羽柴秀次が羽柴家の家督を相続します。 | ||||||||||||||||
■1584年 秋〜1585年 夏 | ||||||||||||||||
三好家・織田家信雄を牽制しながら鈴木家狩りと多聞山城(大和)包囲を完了させ、和泉国・大和国・紀伊国の支配者に。石高は四国地方の諸城も含めて119万石に達し、鳥なき島の蝙蝠に甘んじるより本州に切り込んで奏功と言えよう。時を置かずに、加増と徴兵と撫養城(阿波)・安濃津城(伊勢)・勝龍寺城(山城)への侵攻と、忙しなく行う。この三つの城は兵糧攻めのみで落とせた。 ・氏家家が滅亡しました。 ・三好家が滅亡しました。 ・外様大名の木曽家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1585年 秋〜冬 | ||||||||||||||||
左京大夫を叙任し、初の元服者として津野親忠(軍1政6魅12)が登場。後継者は不要だし能力も凡庸だし、使い捨てよう。 二条城(山城)に籠る武将2・兵力66の織田家信雄軍を、武将10・兵力89の明智軍が囲んでいて、当家は武将10・兵力158を動員して敵を排除した。これで石高222・兵力268の柴田家と隣接したのを踏まえ、二条城の耐久度を21まで上げてから坂本城(山城)に大軍を進める。 ・分部光嘉が織田家信雄の家督を相続します。 ・外様大名の真田家が滅亡しました。 ・河尻家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1586年 春〜夏 | ||||||||||||||||
秀吉亡き後の羽柴家を観察すれば、石高267・武将25・兵力246と数字上は未だ一級品な反面、反乱予備軍が5軍団もいて瓦解の不安も。現実を受け入れながら当家は、柴田領の最西端の小谷城(北近江)と、明智家にとって最後の砦の勢多城(南近江)と、分部家の放棄した桑名城(伊勢)に進軍。 ・外様大名の中川家が滅亡しました。 ・蘆名家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1586年 秋〜冬 | ||||||||||||||||
大雪による退路遮断を見込み、落城間近の小谷城から撤収して柴田軍を挑発したが、無反応に終わって改めて獲りにゆく。続けて、柴田軍の大半が大雪に足を取られている間に、南の長浜城(北近江)を囲んだ。勢多城を落として明智家を滅亡されたら、遺領配分と順番の巡り合わせが悪く、安土城(南近江)が包囲軍の分部家に割り当てられてしまい、その勢多城に武将1・兵力40が来襲。こちらも武将1・兵力34と拮抗しており、随分と好戦的な思考だ。初手に苦慮するも幸い、戦場を逃げ回って時間切れ作戦でお茶を濁せた。 ・明智家が滅亡しました。 ・里見家が滅亡しました。 ・妻木家が滅亡しました。 ・外様大名の宇都宮家が滅亡しました。 ・佐竹家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1587年 春 | ||||||||||||||||
開始から5年経過した長宗我部家及び各地の情勢。 ●戦力 ・石高219 兵力229 所持金3199 領国は北近江国・山城国・大和国・和泉国・紀伊国・阿波国で、南近江国と伊勢国の占領も間近。筒井家のお陰で織田家信孝との水軍戦を回避したのと、その動きを見逃さなかった織田家信雄の後追いで城攻め出来たのが、成果の源。台風の到来は現段階では四国地方に一回に留まるものの、四国地方及び九州地方で戦うのと近畿地方で戦うのはフェイズ開始時の安心感が全然違い、胃腸快調で遊んでいる。 ●武将 ・長宗我部元親 知行54 兵数40 忠義 ─ 谷忠澄 知行 0 兵数 0 忠義12 杉若無心 知行 0 兵数 0 忠義10 津野親忠 知行 0 兵数 0 忠義17 浅野長政 知行 0 兵数 0 忠義14 ・福留儀重 知行27 兵数18 忠義23 ・蜂屋頼隆 知行 0 兵数 1 忠義16 ・長宗我部信親 知行30 兵数40 忠義25 蒲生郷安 知行 0 兵数 1 忠義17 ・久武親直 知行21 兵数40 忠義18 ・香宗我部親泰 知行30 兵数36 忠義25 ・丹羽長秀 知行27 兵数38 忠義20 ・前田利家 知行27 兵数10 忠義24 ・糟屋武則 知行 0 兵数 1 忠義21 一流所は不在ながら凡人以上の忠義者を複数抱え、戦場で重要な盾役も多数確保で、今まで不満は感じない。 ●大名家 ・北条家 石高277 兵力391 敵対:上杉 ・徳川家 石高182 兵力315 敵対:上杉 ・織田家信包 石高 77 兵力 69 敵対:無し ・上杉家 石高154 兵力263 敵対:北条 徳川 柴田 ・柴田家 石高162 兵力264 敵対:上杉 羽柴 長宗我部 ・羽柴家 石高347 兵力440 敵対:柴田 毛利 ・毛利家 石高117 兵力164 敵対:羽柴 島津 ・龍造寺家 石高 77 兵力128 敵対:島津 ・島津家 石高124 兵力218 敵対:毛利 龍造寺 東西共に複雑な前線が構築されて潰し合い、中央の不利が弱まっている。特筆すべきは、島津家が最盛期でも大して成長していないにも拘らず、安芸国を長期的に支配し続けていること。謀反や降伏も起きておらず、どんな経路で本州に上陸して善戦中なのだろうか。あと、織田家信包も険悪はあれど敵対は「無し」とは珍しい。 小谷城から北側を攻めれば羽柴家の東進を塞いでしまう為、次の標的は美濃国に。 ・分部家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1587年 夏〜冬 | ||||||||||||||||
長島城(伊勢)・大垣城(美濃)と雪崩れ込むが、小谷城に柴田家対策の守備兵力を置かねばならず、攻勢弱めでもどかしい。そんな悩みは自動解決する。 織田信包が羽柴秀次の軍門に下りました 葛西家・最上家も追随。大垣城包囲軍は大雪で行動不能=城攻め不可避で、羽柴家との同盟決裂決定である。思考ルーチンが優秀と言うより偶然の産物だろうが、完璧な機会に完璧な仕事をしやがるCPUには本当に感心してしまった。 ・岡田重孝が死亡、外様大名の岡田家が滅亡しました。 ・龍造寺隆信が享年59、鍋島直茂が家督を相続します。 ・鳥居元忠が徳川家の家督を相続します。 ・外様大名の織田家信包が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1588年 春 | ||||||||||||||||
柴田家を東に押し込んで越前国を支配した羽柴家に対し、最前線の小谷城を21に普請。また、大名直轄領が百万石を超えたのを活かし、42万石を手土産に兵力25の一柳直末を一本釣りし、小谷城へ全軍団に当たる武将16・兵力333を集結させ、去就を待つ。 羽柴軍は東の北庄城(越前)に武将8・兵力129を、西の小浜城に武将12・兵力238を布陣。こちらは後者に先攻めを仕掛けて前者の全滅を企むが、順番の折が悪く合計兵力367が攻め入ってきた。この姉川の戦いにて我が軍は決め手と一貫性に欠けて消耗戦を強いられ、両軍の半数以上が失われた時点で何とか敵大将への集中攻撃が決まり、戦術的勝利は得た。 ・外様大名の葛西家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1588年 夏〜秋 | ||||||||||||||||
武将15・兵力239を動員して性懲りも無く、武将21・兵力255の羽柴軍との対決を自分から仕掛ける。これまた消耗戦後の大将集中攻撃で勝利はするも、今回の戦地の小浜城は要衝でもないのに無益な野戦を連続し、筆者の明らかな錯誤で大怪我を負ってしまった。結局、漁夫の利で小浜城の包囲権は柴田家に。 | ||||||||||||||||
■1588年 冬 | ||||||||||||||||
大雪で柴田家との連絡が絶たれたのを利用し、近畿地方の各所に軍団を散りばめて羽柴軍を誘引すると、羽柴秀次の首を見事に狩れた。後継者は有能な羽柴秀長で、自らの首を絞めたようなものだが。 ・羽柴秀長が羽柴家の家督を相続します。 | ||||||||||||||||
■1589年 春〜夏 | ||||||||||||||||
雪解けと共に再び小谷城に全軍団を集結させ、柴田軍の南下を絶対に阻止する構え。我が軍を横目に丹後国入りしてくれるのが理想だったが、適度に分散した兵力を配置してくれた為、次善策の全滅狙いに切り替えて武将3・兵力90と武将5・兵力150を薙ぎ倒した。 ・外様大名の蒲生家が滅亡しました。 ・柴田勝政が柴田家の家督を相続します。 ・外様大名の織田家信孝が滅亡しました。 ・柴田勝敏が柴田家の家督を相続します。 | ||||||||||||||||
■1589年 秋〜1590年 冬 | ||||||||||||||||
羽柴軍を改めて誘引すると、武将11・兵力236に武将11・兵力292で攻め入れられ、ここも大将集中攻撃で凌いだ。翌季節からは反撃に転じ、福知山城(丹波)を皮切りに羽柴領を慎重に切り取ってゆく。 ・外様大名の南部家が滅亡しました。 ・河野通直が死亡、外様大名の河野家が滅亡しました。 ・阿蘇惟将が死亡、外様大名の阿蘇家が滅亡しました。 ・木下家定が羽柴家の家督を相続します。 ・江上家種が鍋島家の家督を相続します。 | ||||||||||||||||
■1591年 春〜冬 | ||||||||||||||||
旧羽柴家・毛利家・旧龍造寺家がしぶとい中、羽柴軍を各個撃破した影響で島津家が急伸を見せ、山陰地方で大軍が当軍と接する。しらばく睨み合った後、こちらが機先を制して武将5・兵力148を全滅させた。 ・外様大名の細川家が滅亡しました。 ・外様大名の宇喜多家が滅亡しました。 ・外様大名の加藤家が滅亡しました。 ・江上家が滅亡しました。 ・外様大名の千葉家が滅亡しました。 ・北条氏忠が北条家の家督を相続します。 | ||||||||||||||||
■1592年 春 | ||||||||||||||||
開始から10年経過した長宗我部家及び各地の情勢。 ●戦力 ・石高396 兵力340 所持金66 東端は越前国と美濃国一部、西端は出雲国周辺で、摂津国・丹後国は歯抜けだがシナリオ2の織田家と概ね似た領国。自軍の強化より敵軍の弱体化を優先した結果、徴兵にお金が溶けてゆくのは致し方無し。 ●武将 ・長宗我部元親 知行93 兵数36 忠義 ─ ・福留儀重 知行33 兵数40 忠義25 ・戸田勝隆 知行33 兵数18 忠義25 伊集院忠棟 知行 0 兵数 1 忠義24 ・長宗我部信親 知行36 兵数40 忠義25 ・久武親直 知行33 兵数29 忠義25 ・香宗我部親泰 知行36 兵数40 忠義25 ・丹羽長秀 知行33 兵数40 忠義25 ・前田利家 知行33 兵数40 忠義25 ・島津忠長 知行33 兵数17 忠義25 ・丹羽長重 知行33 兵数40 忠義23 顔触れに変化は少なく、譜代の重臣が屋台骨を支えてくれている。新加入者も良質。 ●大名家 ・北条家 石高256 兵力218 敵対:鳥居 上杉 ・鳥居家 石高285 兵力399 敵対:北条 ・上杉家 石高151 兵力186 敵対:北条 ・柴田家 石高172 兵力110 敵対:長宗我部 ・木下家 石高232 兵力 72 敵対:長宗我部 島津 ・毛利家 石高117 兵力164 敵対:島津 ・島津家 石高373 兵力242 敵対:毛利 長宗我部 東西が揃って大混戦で「天下分け目の天王山」が起きそうもなく、こつこつと一大名ずつ正攻法で滅ぼしてゆくしかなさそう。時間が掛かって面倒なのが否めないので、当家が征東せずとも統廃合が進んで欲しいところだ。 順番の巡りに恵まれ、山陰地方から四国地方まで手広く空城攻め。最初に勝瑞城を大切したのが幸いし、水軍戦無しで土佐国の支配を取り戻せた。 | ||||||||||||||||
■1592年 夏〜1983年 冬 | ||||||||||||||||
旧羽柴家を滅亡させて四国地方統一を達成した。戦場が九州地方に及ぶと億劫なので、透かさず沿岸の城を普請して島津軍を敢えて攻めさせ、何人も討ち取った。島津家が毛利家を滅亡させた。鳥居家の牧野康成が信濃国で挙兵し、自ら元の鞘に戻った。福留儀重・長宗我部信親・丹羽長秀が寿命を迎えた。島津家を滅亡させて九州地方を手付かずのまま統一した。西日本を制覇し、鳥居家との交戦を開始した。 ・増田長盛が木下家の家督を相続します。 ・増田家が滅亡しました。 ・伊達輝宗が死亡、伊達政宗が家督を相続します。 ・滝川一益が上杉家の家督を相続します。 ・島津家久が島津家の家督を相続します。 ・外様大名の高山家が滅亡しました。 ・毛利家が滅亡しました。 ・安東家が滅亡しました。 ・徳川一益が享年69、最上義光が家督を相続します。 ・島津家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1594年 春〜冬 | ||||||||||||||||
石高1111・兵力350の長宗我部家に立ち塞がるは、石高450・兵力444の鳥居家を筆頭に、石高129・兵力33の柴田家と石高111・兵力91の北条家と石高155・兵力192の最上家の他、家督相続のせいで南陸奥国で百姓一揆が発生して、目が一しか無いサイコロで双六をするかのように骨が折れそう──そうぼやいてると、前述通りに意味不明な行動をしたばかりの牧野康成が信濃国で再挙兵し、我らの軍門に下ってきてくれた。これで信濃国が労せずして領国になって、東日本の大混戦へ混じれるように。天下統一までの手間が大幅に減少して嬉しい。 鳥居軍は当軍を総兵力でやや上回っている割に、西から押し寄せる当軍への反応は非常に鈍く、空城攻めも武将狩りも捗った。 ・奥平信昌が鳥居家の家督を相続します。 | ||||||||||||||||
■1595年 春〜秋 | ||||||||||||||||
甲州地方・東海地方の大半を治め、関東地方で北条家と開戦し、力押しで片付けてゆく。あと、なぜかここまで長生きした柴田家を、奥平家が始末してくれてありがたや。 ・北条氏盛が北条家の家督を相続します。 ・柴田家が滅亡しました。 ・北条家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1595年 冬〜1596年 秋 | ||||||||||||||||
関東地方では軍団を迅速に展開し、武将2・兵力73→武将4・兵力151→武将1・兵力40→武将1・兵力40→武将4・兵力84→武将1・兵力40の順で全滅を達成。そして、旧徳川家の滅亡と入れ替わりで、旧上杉家と天神山城(越後)で主力同士で初交戦に至る。ここは敵大将の兵力が少なすぎて、勝利は余裕も肝心の全滅はさせられず。とは言え、この大規模野戦が旧上杉家にとっては最初で最後の見せ場で、あとは無心でコントローラーのボタンを押すだけの単純作業しか残っていない。 ・外様大名の相馬家が滅亡しました。 ・大久保忠世が奥平家の家督を相続します。 ・大久保家が滅亡しました。 | ||||||||||||||||
■1596年 冬〜1597年 冬 | ||||||||||||||||
本庄繁長の軍団が裏切ってきたり、大雪に紛れて寝返りを仕掛けまくったり、百姓一揆が二度起きたり、出来事は幾つかあれど多くを語る必要は無し。簡単な掃討作戦に専念するだけだ。 ・最上義康が最上家の家督を相続します。 ・小野寺景道が最上家の家督を相続します。 | ||||||||||||||||
■1598年 春 | ||||||||||||||||
天下統一を間近に控えた長宗我部家の状況。 ●戦力 ・石高1807 兵力520 所持金96799 石高に兵力が釣り合っていないのは、忠義管理や移動が億劫で武将数を増やしたくない筆者のプレイ姿勢に依る。それでも中盤以後は兵力動員に苦労はしていない。 ●武将 ・長宗我部元親 知行1291 兵数40 忠義 ─ ・戸田勝隆 知行 45 兵数40 忠義23 ・久武親直 知行 45 兵数40 忠義18 ・香宗我部親泰 知行 45 兵数40 忠義24 ・前田利家 知行 45 兵数40 忠義22 ・島津忠長 知行 45 兵数40 忠義22 島津忠垣 知行 42 兵数40 忠義25 ・丹羽長重 知行 45 兵数40 忠義25 ・牧野康成 知行 42 兵数40 忠義20 石川康勝 知行 39 兵数40 忠義25 石川三長 知行 39 兵数40 忠義25 ・本庄繁長 知行 42 兵数40 忠義22 白石宗実 知行 39 兵数40 忠義25 武将を選り好みして重臣集めには苦労してきたが、牧野康成と本庄繁長の思わぬ謀反が補ってくれた。これが起きなければ無心になれず、慎重に攻め入らなければならなかっただろう。 北陸奥国の真ん中、二城を挟み撃ちして終局。 ・小野寺家が滅亡しました。 1598年 春 長宗我部元親は天下人となった。 | ||||||||||||||||
■あとがき | ||||||||||||||||
10年振りにリプレイを書くならどのシナリオのどの大名がいいか──なんて思案して決めたのが、このシナリオ3の長宗我部家のノーリロード縛り。今まで四国地方の大名でリプレイをしておらず、難度も数多の弱小大名よりは簡単だけど、水準より少し難しいくらいなのが理由です。あまりに条件が厳しい大名だと、途中で諦めてしまいそうで。 最初に軍資金を水軍力に費やして近畿地方上陸を目指す「ノーリロード用戦略」は思い付きではなく、当ウェブサイトを作り出した頃には使用していました。通常であれば織田家信孝と不利な水軍戦で幸運を呼び込まなければ始まりもしませんが、今回は四国地方で足止めを食らわない上に近畿地方で空城攻めを続けられるラッキーパターンを引き、度々の衝撃はあれど致命的な不利には繋がらない中盤戦を経て、終盤は描写を簡素化して構わない程に凪。難度と共に本作の醍醐味である戦略練りの楽しさも下がってしまった為、この大名で胃が痛くならない程度に面白い展開を引き出したいなら、同盟を禁止しても良いかもしれません。 |