■本能寺炎上 真田家リプレイ | |
大名:A 戦力:F 配下:F 地利:D 難易度:最上級 ●戦力 ・石高10 兵力15 所持金 ─ 見るに堪えない。語るまでもない。 ●武将 ・真田昌幸 軍事17 政治18 魅力11 士気13 忠義 ─ 初年と3年後に1人ずつ元服者がいるとは言え、独りぼっちの船出は淋しいし厳しい。大名として重要そうな資質の魅力が少し低いが、本作は軍事と政治が高ければ補える仕組みになっており、武将は来る者拒まずで増やそう。 ●外交 戦力・地利共に辛い滝川家の外様大名として開始するのは、単独配置の機会が増える裏返しなので悪い話ではない。強豪の上杉家・北条家が隣り合っている割に喧嘩を売られにくく、逆方面では一転して弱小勢力に囲まれている影響で、生存能力が高いのも評価点だ。 本能寺炎上に「結果的にリロード無しのクリアも成った」と豪語した昔の自分を信じ、リロード禁止で進行します。 |
■1582年 夏〜1583年 春 |
初手で謀反。独力では如何ともし難いので誰かに降伏しなければいけないが、最善手の判断は悩ましい。今回は弱者ながら甲斐国を治める、河尻家に頭を下げてみた。城>軍団で単独配置が多くなるのが確実なのと、徳川家と北条家のどちらにも鞍替え出来るのを是とした。 真田昌幸「これ以上河尻には刃向かえぬ」 河尻秀隆「それが真田昌幸殿のご本意でござるか?」 我が軍略と領地が欲しかろうと見くびっていたら、見事に胸中を見破られてしまった。その後、滝川家が待ってましたとばかりに上杉家へ降伏したので、元当主に倣う。 真田昌幸「わしが使者となれば、上杉景勝も信用するだろう」 上杉景勝「良きにはからえ」 この間に真田信之(軍11政5魅12)が元服。一族の割に初期忠義が低いので褒美を奮発し、兵力を1だけでも上げて討ち死に確率を減らしておく。 ・毛利家秀頼が滅亡しました。 ・三好家が滅亡しました。 ・稲葉家が滅亡しました。 |
■1583年 夏〜秋 |
どうぞ裏切って下さいと言わんばかりに、奥州地方への入り口である新発田城(越後)に単独配置されては当然に謀反し、石高22・兵力25に倍増。一先ずは天神山城(越後)に移動し、上杉家に再度の降伏即謀反が成功すれば、一国の主となれる形に。 真田昌幸「これ以上上杉には刃向かえぬ」 上杉景勝「真田は皆殺しじゃ」 真田昌幸「これ以上上杉には刃向かえぬ」 上杉景勝「何を今さら白々しい!」 自らの不注意を余所に、大変ご立腹でいらっしゃる。即座に真田征伐隊が編成され、当家は一手詰めまで追い込まれた。 ・外様大名の津田家が滅亡しました。 ・織田家信孝が滅亡しました。 |
■1583年 冬 |
大雪で延命。上杉家に慰謝料として全財産の金3800を持参するも、受け取ってもらえず。 真田昌幸「わし自らが使者を勤めようぞ」 上杉景勝「もはや話し合いの余地はござらん」 ・河尻家が滅亡しました。 ・外様大名の森家が滅亡しました。 |
■1584年 春〜夏 |
上杉家への進物・同盟・降伏は不調に終わり、もはや万策尽きて投了寸前の当家に、救世主が現れる。 上杉家景勝より降伏勧告の使者が参りました。 まさかの逆転劇で、興奮気味に尻尾振って軍門に下った。 ・外様大名の阿蘇家が滅亡しました。 |
■1584年 秋〜1585年 夏 |
北条高広が謀反を起こし挙兵しました。 舞台は新発田城で当家と同じ轍を踏むだろうが、これの良し悪しはどちらかと言えば後者か。上杉家が他家を快調に押し続け、関東出兵に乗じて再起したいのに、浮気性な彼のせいで我が野望は遠のいた。 ・里見家が滅亡しました。 ・池田恒興が死亡、池田輝政が家督を相続します。 ・外様大名の宇喜多家が滅亡しました。 ・佐竹義里が佐竹家の家督を相続します。 ・九鬼嘉隆が織田家信雄の家督を相続します。 ・外様大名の河野家が滅亡しました。 ・大友家が滅亡しました。 |
■1585年 秋〜冬 |
上杉家の軍団配置が軽率で、魚津城(越中)にて謀反のお膳立てを整えてくれ、春日山城(越後)を携えて石高26で再独立。大勢力の柴田家と睨み合っているが、昌幸の交渉力を持ってすれば和平なり投降なり、自由自在であろう。 真田昌幸「わし自らが使者を勤めようぞ」 柴田勝家「真田殿のご武運を、お祈りいたしますぞ」 背後の懸念を解消した上、旧宗家とは偶然にも休戦が成立しており、越後国の空城攻めと言う本筋が見えた。また、この間に真田幸村(軍24政13魅13)が元服し、苦労を承知で本シナリオの真田家を敢えて選んだ甲斐を感じる。 ・蒲生家が滅亡しました。 ・千葉邦胤が死亡、国分胤通が家督を相続します。 |
■1586年 春〜冬 |
上杉家及び、越後国の東半分を掌握する北条家高広の先手を確認後、春日山城に移動して天神山城を空城攻め。この時、栃尾城(越後)と海津城(信濃)も視野に入るが、休戦崩壊を恐れて欲張らずに安全策を取る。北条家高広は地図上では遥か彼方の安東家に侵攻した為、戦法「一時撤退」を繰り返して僅かでも兵力を増やしておくと、大雪に紛れつつ目標を落とせた。 ・外様大名の岡田家が滅亡しました。 ・氏家家が滅亡しました。 ・妻木家が滅亡しました。 ・堀内家が滅亡しました。 ・安東家が滅亡しました。 ・相馬家が滅亡しました。 ・上条政繁が上杉家の家督を相続します。 |
■1587年 春 |
開始から5年経過した真田家及び各地の情勢。 ●戦力 ・石高39 兵力57 所持金8179 柴田家の後ろ盾を失えば急転直下で滅亡確定の、危ない橋を渡っている。いつまでどこまで空城攻めを続けられるか、行動順の注視が欠かせない。 ●武将 ・真田昌幸 知行24 兵数40 忠義 ─ ・真田信之 知行 3 兵数 7 忠義25 ・真田幸村 知行12 兵数10 忠義25 元服者以外の武将を獲得出来ていないが現状では困っておらず、嬉しいんだか悲しいんだか。未だに野戦も力攻めも挑んでいないので、真田幸村の真価も発揮出来ていない。 ●大名家 ・北条家氏政 石高205 兵力228 敵対:徳川 ・徳川家 石高144 兵力199 敵対:北条家氏政 ・柴田家 石高246 兵力400 敵対:明智 羽柴 毛利 ・明智家 石高154 兵力175 敵対:柴田 ・羽柴家 石高205 兵力329 敵対:柴田 ・毛利家 石高124 兵力216 敵対:柴田 島津 ・龍造寺家 石高 92 兵力153 敵対:島津 ・島津家 石高221 兵力240 敵対:毛利 龍造寺 他に一定の存在感を示す勢力は、佐竹家・上条家・織田家信包。旧上杉家が知らぬ間に没落した割に、北条家氏政の伸張が遅れ気味なのは救いだ。 北条家氏政の武将1・兵力18が、栃尾城を落城させかけているのは見逃せず、天神山城から武将1・兵力40を派遣し、初めての野戦で勝利を飾って漁夫の利を得られた。新発田城に取って返している北条家高広の主力は先攻めで釘付けにし、夏に帰還すれば天神山城は無事だ。 ・香宗我部親泰が長宗我部家の家督を相続します。 |
■1587年 夏〜冬 |
北条高広が死亡しました。享年63才。 当家にとって目の上のたんこぶが、ひっそりと歴史の裏に消えた。寿命の前倒しなんて稀なのに最適な人物に起こるなんて、もしや昌幸の謀略の仕業かと疑わざるを得ない、数奇な巡り合わせだ。 明智光秀と羽柴秀吉が同盟を結びました。 こちらも興味深い展開で、反柴田同盟が中央で成立。このような強いランダム性と強い思考ルーチンが噛み合い、歴史イベントを採用していない本作をドラマチックに仕立て上げてゆく。 閑話休題。合戦では瀕死の九戸軍を死体蹴りして大将の首を取るも、包囲中の新発田城の支配権は蘆名家に、檜山城も南部家に割り当てられてしまった。前者は大雪に隠れて奪い返し、越後国統一を達成。 ・北条高広が享年63、九戸政実が家督を相続します。 ・九戸家が滅亡しました。 ・筒井順慶が死亡、筒井定慶が家督を相続します。 ・鈴木佐大夫が享年59、雑賀孫一が家督を相続します。 ・龍造寺隆信が享年59、鍋島直茂が家督を相続します。 |
■1588年 春 |
石高60・兵力86・金10072まで数値は上がり、村上義明(軍10政7魅9)の仕官のおまけ付で、感触では流石に降伏即謀反狙いの序盤は切り抜けられたか。柴田家との同盟が一発で成功して継続中なのと、北条家との休戦が自然と維持されているのが大きい。 ・雑賀家が滅亡しました。 |
■1588年 夏〜冬 |
不可抗力で関係悪化した蘆名家が北条家に降伏し、局地的に休戦が崩壊してしまったのを機に、率先垂範で新発田城の耐久度を21まで普請。更に、北条家を刺激しないように余計な兵力は天神山城に引き返しておくが、武将3・兵力66に新発田城が襲われた。ただ、これは全軍団の武将4・兵力105で反撃し、淡々と処理しておけばいい。耐久度は改めて上げておく。 |
■1589年 春〜冬 |
甘糟景継(軍6政12魅7)が仕官。黒川城(南陸奥)の北条軍を引き付けたり休戦したりしつつ、日本海側の長い街道を通って檜山城を皮切りに、奥州地方討伐を北から開始。横手城(出羽)に孤立した伊達家を壊滅させ、鮭延秀綱(軍16政7魅11)・伊達成実(軍18政5魅11)・伊達政宗(軍13政19魅16)が観念して配下に。魅力的な顔触れに頬も緩む。 ・外様大名の保科家が滅亡しました。 ・小野寺景道が伊達家の家督を相続します。 ・佐竹義里が享年79、佐竹義種が家督を相続します。 ・蘆名盛隆が死亡、那須資晴が家督を相続します。 |
■1590年 春〜夏 |
八戸城(北陸奥)へ進軍すると、越後国への侵入を狙う不届き者──沼田城(上野)に武将4・兵力54を発見。これが誰かと言えば、北条家でも徳川家でも佐竹家でもなく、開始時に信濃国でお隣さんかつ上杉家で同じ釜の飯を食った、木曽家。実は1585年に下野国で独立し、1587年には石高100まで上り詰めたが、兵力が少なくて情勢分析で無視してきた。未だに健在とは何たる生命力だ、お互い様だけど。 ・外様大名の九鬼家が滅亡しました。 ・南部家が滅亡しました。 ・鍋島家が滅亡しました。 |
■1590年 秋〜冬 |
当家が対抗可能な木曽軍は、当家が抵抗不能な北条軍に追いやられてしまった為、栃尾城は生贄に捧げて奥州討伐の速度を早めようと覚悟したら、北条軍は国境から散開してくれて大感謝。尚、木曽家は遠方の島津家に臣従した。 ・十河家が滅亡しました。 ・柴田勝家が享年69、柴田勝敏が家督を相続します。 ・中川清秀が死亡、中川秀政が家督を相続します。 ・外様大名の小野寺家が滅亡しました。 ・小早川隆景が毛利家の家督を相続します。 |
■1591年 春 |
北条家氏政より降伏勧告の使者が参りました。 意外と関東地方の小競り合いが収まらぬ時勢だけに、石高81・兵力163に過ぎない当家は、石高302・兵力400の大大名の末席を汚すのもありかと少し検討したが、まだ拙速かと留保。その北条家との共同作業においてだが、春の終わりまでに奥州討伐は終了した。 ・外様大名の宇都宮家が滅亡しました。 ・佐竹家が滅亡しました。 ・外様大名の葛西家が滅亡しました。 |
■1591年 夏 |
北条領への空城攻めを開始したいが、先手を引いては軍団配置をどうすべきやら。ただ、地図上で北条軍が調達可能な兵力を観察すれば、こちらの一点集中への対応は無理そうで、栃尾城へ全軍団を集結させると武将4・兵力54しか用意してこない。後の行動順の関係で交戦にもならず、意中の沼田城は無血開城した。これだけで上野国の石高53の半分弱を得られて、奥州地方の戦いが如何に実りの少ないものなのか、改めて思い知る。 |
■1591年 秋 |
沼田城を耐久度21まで普請し、箕輪城(上野)と河越城(武蔵)に先攻めし、唐沢山城(下野)を包囲中の北条軍もとい北条氏政軍に、乾坤一擲の大勝負を仕掛ければ、兵力は146同士で編成も似たり寄ったりと、不要で無謀な強攻策だと戦場に着いてから気付いた。先の直轄領増加と敵大将発見に油断して目測が疎かになってしまったせいで、防御陣形からの大将集中攻撃で何とか凌げたものの、後に響かなければ良いが。 ・佐久間盛政が柴田家の家督を相続します。 |
■1591年 冬 |
北陸地方が大雪です。 大雪の退路遮断と言う基本を失念し、沼田城が事実上の孤立。唐沢山城の包囲を解いて全軍団を再集結させ、先攻めも卑怯を承知で駆使し、唐沢山城への再侵攻を命じて乗り切れた。しかし、その少し前に下記の凶報も届いている。 佐々成政と北条氏政が同盟を結びました。 本作の外交関係は味方の味方と争えば味方との関係も悪化、即ち北条家との争いは旧柴田家との争いを誘発することに。沼田城を落城させた時にはもう安定期かと安堵したのに、波乱が起こり過ぎだ。 ・佐久間盛政が享年39、佐々成政が家督を相続します。 ・加藤清正が羽柴家の家督を相続します。 |
■1592年 春〜夏 |
開始から10年経過した真田家及び各地の情勢。 ●戦力 ・石高126 兵力167 所持金16108 吹けば飛ぶような外様大名から、一端の大名になれた。これから関東地方で不利な戦いをこなしつつ、将来の天王山に向けて国力を蓄えねばならないが、経験則ではリロード不要の段階まで来れたように見える。 ●武将 ・真田昌幸 知行21 兵数29 忠義 ─ 亘理元宗 知行 0 兵数 1 忠義22 南部信愛 知行 0 兵数 1 忠義21 丹与三 知行 0 兵数 1 忠義23 ・真田信之 知行21 兵数32 忠義25 ・真田幸村 知行21 兵数28 忠義25 ・村上義明 知行 2 兵数 1 忠義21 葛西晴重 知行 1 兵数 1 忠義22 ・甘糟景継 知行 1 兵数 3 忠義23 ・伊達政宗 知行21 兵数35 忠義25 伊達成実 知行 2 兵数 4 忠義25 ・後藤信康 知行21 兵数26 忠義25 鮭延秀綱 知行 2 兵数 4 忠義21 ・延沢満延 知行11 兵数 1 忠義10 大名1人で開始したとは思えない面子。適切な機会に仕官と降伏で必要な人数が加わってくれて、能力も申し分が無い。 ●大名家 ・北条家 石高380 兵力335 敵対:真田 島津 ・徳川家 石高219 兵力429 敵対:明智 ・佐々家 石高257 兵力241 敵対:明智 ・明智家 石高231 兵力279 敵対:徳川 佐々 ・加藤家 石高112 兵力190 敵対:島津 ・島津家 石高672 兵力445 敵対:北条 加藤 他に、旧上杉家・旧毛利家が残存。佐々家には前述の理由で、進物を適度に贈っておくのが賢明だろう。西日本を制圧して巨大化が止まらない島津家は脅威半分、実利的に天下統一を早めてくれて感謝半分だ。 河越城で武将4・兵力81を全滅→落城させるも、すぐに北条家の大軍が押し寄せてきて退却。 ・外様大名の木曽家が滅亡しました。 |
■1592年 秋〜冬 |
佐々家へ進物を贈るべく、政治最高の伊達政宗を沼田城に残して、他軍団は信濃国の空城攻めに。北条軍が総攻撃を差し向ける危険は、耐久度21だし越後国に退却可能だしで、深く考えなかった。 これが非常に悪手だった。実際に北条軍が兵力300で沼田城を猛撃してきたので順当に退却すれば、そこは越後国ではなく唐沢山城しか領地の無い下野国。北条軍は当然、宇都宮城(下野)と小山城(下野)から圧力を掛けてくる。沼田城の北条軍を追っ払って来援しようにも、勝利確定でない厳しい野戦となる以前に、北陸地方への大雪で実行不能だ。先攻めの賭けにも負け、武将2・兵力46で武将2・兵力80を迎え撃つ。野戦では幸運かつ見事な逆転勝利で籠城を阻んだものの、伊達政宗及び伊達成実の命が風前の灯火なのに変わりはない。 ・外様大名の上条家が滅亡しました。 |
■1593年 春〜秋 |
2人を絶対に失いたくなくて城を死守すべく固めたが、現状の当家は耐久度30が上限で心許ない。尚、上限値については基本知識「城普請耐久度上限」を参照。唐沢山城は三方から兵力160で攻められ、最後の手段の籠城で時間を稼ぐも、行動順で三連敗を喫して絶体絶命。不用意な配置と度重なる不運によって、両人の身柄は北条家に拘束されてしまった。 救出失敗とは言え、唐沢山城の武将5・兵力163+伊達政宗・伊達成実に、武将7・兵力162での野戦は始まる。数的不利だが人材の差で当方有利なのと、ここで2人を討ち取らずに全滅を達成出来れば元鞘に収まると、気を取り直して捨て駒を伊達成実にぶつけたら、「討ち取ったり!」で意気消沈。真田幸村が討ち死には免れるも兵力0にされてしまう程に満身創痍の中、何とか伊達政宗の生け捕りには成功した。伊達政宗・伊達成実・真田幸村を同時に失いかけて、恥ずかしい程に取っ散らかった一年間だ。 ・外様大名の小早川家が滅亡しました。 ・外様大名の香宗我部家が滅亡しました。 ・外様大名の滝川家が滅亡しました。 ・北条氏忠が北条家の家督を相続します。 ・外様大名の高山家が滅亡しました。 |
■1593年 冬〜1594年 秋 |
上記の徒労により、当家は武将11・兵力34の危険水域まで凋落したが、資金には余裕があるので徴兵と城普請で前線を立て直し、野戦を避けて無防備な下野国の奪取へ。それでも孤立中の唐沢山城に中途半端な守備兵を残したのを北条軍に咎められ、武将8・兵力103で武将4・兵力155を跳ね返さねばならない綱渡り状態が続く。しかし、秋の終わりでは遂に、押しつ押されつの沼田城攻防戦に決着を付けた。 ・外様大名の細川家が滅亡しました。 ・外様大名の池田家が滅亡しました。 ・北条氏邦が北条家の家督を相続します。 ・外様大名の中川家が滅亡しました。 ・加藤家が滅亡しました。 ・外様大名の山岡家が滅亡しました。 ・外様大名の筒井家が滅亡しました。 ・猪苗代盛胤が北条家の家督を相続します。 |
■1594年 冬〜1595年 春 |
旧北条家を武将4・兵力46まで衰退させたが早いか、今度は徳川家が甲州地方から当家に睨みを利かせる。その徳川家に苛められて明智家は、成長甚だしい島津家に降伏した。当家はようやく繁忙期を乗り越え、関東地方の空城攻めに着手。 ・外様大名の国分家が滅亡しました。 ・太田長知が佐々家の家督を相続します。 |
■1595年 夏〜冬 |
猪苗代盛胤が、島津義久の軍門に下りました。 石高250以上を有する癖に弱気過ぎと最初は愚痴ったが、先程に猪苗代盛胤は一揆抑止力が無いのが見て取れたので、歓迎すべき決断だと思い直した。 ・外様大名の猪苗代家が滅亡しました。 |
■1596年 春〜冬 |
広大な関八州をほぼ無傷で開拓してゆき、盟友の旧柴田家が臣従してきたので温かく迎え入れ、石高は500に達した。北陸地方を一挙に得たことで島津軍と会敵し、北庄城(越前)にて武将5・兵力42を全滅。 ・外様大名の明智家が滅亡しました。 |
■1597年 春〜夏 |
開始から15年経過した真田家及び各地の情勢。 ●戦力 ・石高592 兵力370 所持金16108 天下統一に必要な数値まで爆発的に膨れ上がった反面、中盤は石高120程度で停滞どころか漸減さえしてしまい、酷い足踏みだった。不利益な拘りを持ったり、大事な時に楽観的な面が否めなかったりなところは、攻略の反面教師にして欲しい。 ●武将 ・真田昌幸 知行126 兵数40 忠義 ─ 成沢道忠 知行 0 兵数 1 忠義18 ・真田信之 知行 51 兵数40 忠義25 ・真田幸村 知行 54 兵数40 忠義25 富田将監 知行 48 兵数40 忠義24 ・甘糟景継 知行 48 兵数40 忠義25 ・伊達政宗 知行 51 兵数40 忠義25 鮭延秀綱 知行 48 兵数40 忠義21 ・後藤信康 知行 48 兵数40 忠義25 ・北条氏直 知行 48 兵数40 忠義25 ・太田長知 知行 69 兵数 9 忠義18 5年前からほぼ据え置きに見えて、伊達成実の不在が心に突き刺さる。太田長知は役立つ人材でもないのに知行過多で、力攻めで早々に処分するのが手筋だ。さっきの盟友とは何だっけ。 ●大名家 ・徳川家 石高 174 兵力201 敵対:真田 島津 ・島津家 石高1287 兵力507 敵対:真田 徳川 徳川家と協力して島津家を攻めるのも、島津家と協力して徳川家を攻めるのも、教科書通りで面白みに欠けるから両家同時に攻めてしまおう。また痛い目に遭うかもしれないけど。 島津軍が高遠城(信濃)に武将11・兵力353の本気をぶつけてきたので、そそくさと退散。 ・外様大名の木曽家が滅亡しました。 ・外様大名の太田家が滅亡しました。 |
■1597年 秋 |
高遠城は耐久度21に普請済みで落城を免れており、是非とも全滅を食らわせたい。愚直に正面対決で挑んでは無理筋な為、故太田長知より頂戴した潤沢な大名直轄領から100を元手に武将3・兵力79を寝返らせておき、武将13・兵力450で出陣して武将9・兵力275を掃討した。戦果の大きさ故、大名率いる大軍同士の大合戦はこれが最初で最後になりそうだ。 ・島津義弘が島津家の家督を相続します。 |
■1597年 冬〜1598年 夏 |
島津軍を再び高遠城に誘引し、城を包囲させる→寝返りを仕掛ける→野戦で全滅させる→全員討ち死に。また、徳川軍にも岩殿城(甲斐)で武将5・兵力101を同じ目に遭わせ、耐久度44の府中城で死に時を待つ武将2・兵力42の徳川家康も確保した。 ・外様大名の最上家が滅亡しました。 ・山田有信が島津家の家督を相続します。 |
■1598年 秋 |
旧島津家は武将2・兵力71、徳川家は武将 13・兵力114で、関白太政大臣が大膳大夫より先に召された。 ・外様大名の織田家信包が滅亡しました。 ・外様大名の那須家が滅亡しました。 ・山田家が滅亡しました。 |
■1598年 冬〜1599年 夏 |
大納言は東海地方を悠然と暴れ回り、徳川家に付け入る隙を与えない。ただ、士気の低さで有名な鳥居元忠を独りで西日本に解き放ってしまい、追っても追っても逃げられてゆき、岐阜城(美濃)にてやっとで取っ捕まえた。お前は避球で、いつも最後まで内野に生存する曲者か。 |
■1599年 秋 |
天下統一を間近に控えた真田家の状況。 ●戦力 ・石高793 兵力301 所持金41319 兵力が低水準で済んでいるのは、島津家への寝返り攻勢の成功が要因で、寝返り→使い捨て→討ち死に→知行回収→寝返りの循環が順調だった。 ●武将 ・真田昌幸 知行126 兵数21 忠義 ─ ・真田信之 知行 51 兵数40 忠義25 ・真田幸村 知行 54 兵数40 忠義25 富田将監 知行 48 兵数40 忠義25 ・甘糟景継 知行 48 兵数40 忠義25 ・伊達政宗 知行 51 兵数40 忠義25 鮭延秀綱 知行 48 兵数40 忠義25 ・後藤信康 知行 48 兵数40 忠義25 こっそりひっそりうっかり、北条氏直を討ち死にさせてしまった。天下統一目前なのに家臣の扱いがぞんざいで申し訳無いが、花に嵐の例えもあるさと開き直ろう。 府中城と岐阜城を落とし、波乱万丈の立志伝に結びを記す。 ・鳥居元忠が徳川家の家督を相続します。 ・鳥居家が滅亡しました。 1599年 秋 真田昌幸は天下人となった。 |
■あとがき |
悔しくも初回でのクリアではありませんが、昔の自分に騙されないで済んだのを喜ばしく思います。詳細は不明ながら、前回は様々な大名を行き来しての「成り行き任せ」らしいので、上杉家への2度の降伏だけで軌道に乗せた今回の方が洗練されているのではないでしょうか。その代わり、滅茶苦茶に取り乱してはしたない中盤には、目を瞑って頂ければと。 初手の河尻家に降伏は成立したら、甲斐国で謀反して徳川家か北条家へ早々に鞍替えし、大石高と好立地を兼ね備えた場所で謀反の機会を数年内に得られるはずで、リプレイ用素材としては拒否されて良かったかも。また、序盤に奥州地方を最北端から南下してゆくパターンは珍しい攻略手法で、あそこで関東地方進出を狙っていれば北条家からの強い反抗が予想され、正しい采配かつ遊んでいて新鮮でした。孤立無援の中で上杉家から降伏勧告が来た時、新生活の一歩目で柴田家と一発で同盟が結べた時、伊達家の優秀な家臣を召し抱えた時と、嬉しい瞬間も盛り沢山で後味も良し。本ページがシナリオ3の真田家のリロード禁止プレイを楽しむ一助になれば幸いです。 |