■関ヶ原 伊達家リプレイ | |
大名:A 戦力:C 配下:C 地利:A 難易度:中級 ●戦力 ・石高75 兵力88 所持金 ─ 東軍の外様大名として最高の座は揺るぎない。ただし、中級とはシナリオ4での相対的な難易度で、シナリオ1〜3の基準では最上級に位置する。 ●武将 ・伊達政宗 軍事13 政治19 魅力16 士気19 忠義 ─ ・屋代景頼 軍事13 政治 4 魅力 2 士気18 忠義17 ・留守政景 軍事12 政治 3 魅力10 士気 4 忠義20 ・伊達成実 軍事18 政治 5 魅力11 士気11 忠義16 ・桜田元親 軍事 8 政治10 魅力 5 士気14 忠義15 ・後藤信康 軍事15 政治10 魅力 4 士気14 忠義16 ・片倉景綱 軍事16 政治16 魅力 9 士気13 忠義20 軍事と政治が共に高い武将が複数おり、徴兵に困らされにくいのが嬉しい。ただ、無い袖は振れない序盤でも忠義が低下する武将がいるので、該当者は捨て駒への格下げも検討を。 ●外交 怨恨の仲らしい豊臣家だが、交渉者の政治力と参議の官位故か同盟の成功率は高い。 |
■1600年 春 |
伊達家は幸いにも、拠城の仙台城(北陸奥)に隣接する両城が同軍の空城であり、初期配置から謀反に絶好の機会が与えられている。兵力が現状維持されるだけの石高も手に入り、初手は1ターン目の謀反で安定だ。 時同じくして挙兵した大名は数人いたが、中でも出羽国の秋田実季の決断が伊達家にとって大きな利益をもたらす。謀反後に豊臣家からの脅迫に従ったことにより、北陸奥国に残る東軍の八戸城が孤立した形になる直接的な利益に加えて、横手城(出羽)の小野寺家を含めて上杉家・佐竹家との連携が取れるようになり、東軍を牽制してくれる東日本の西軍が強化されたのが喜ばしい。手近な東軍の城を素早く支配下に置きたい伊達家としては、豊臣家との同盟を切望する。 片倉景綱「伊達家存続のため、全力を尽くしまする」 豊臣秀頼「両家の絆、ますます深まりましょう」 作戦フェイズでは動ける者全てに霞ヶ城(出羽)への侵攻を指定し、武将数が多く成長されると厄介な最上家を真っ先に叩いておいた。ちなみに、豊臣秀頼の気紛れによりリロードは既に4度を数えている。 |
■1600年 夏〜冬 |
片倉重長(軍16政7魅15)が加入。大将への集中攻撃を食らって敗走後、霞ヶ城に立て籠っている敵の武将7・兵力21が反撃を試みない程度の兵を残し、目標を孤立中の八戸城に移す。本来であれば順番を操作しないと攻めにくい城であり、秋田実季の決断に大感謝である。幸運は更に続き、秋には豊作の恩恵まで受けられた。 |
■1601年 春〜夏 |
八戸城を落として北陸奥国を統一出来た喜びも、作戦フェイズで西軍の17大名家が連続滅亡する絶望的な光景を見せられて、帳消しに。西軍と東軍の力関係が序盤で著しく傾くと非常に厳しいのはわかっており、素直に諦めてやり直すのが賢明なのかもしれない。 |
■1601年 秋〜冬 |
秋に命運の尽きた霞ヶ城から志村光安(軍15政10魅11)と楯岡満茂(軍12政12魅14)を招き入れ、大雪に埋もれながら知行の配分と徴兵を行い、本年の終了時点で石高88・兵力122となった。他勢力の動向に目を移すと、上杉家を主力とする東日本駐留の西軍が思いの外の奮戦で一つの城とて落とされず、伊達家の周囲には西軍の城のみが繋がる状況である。早くも手切れの頃合か。 |
■1602年 春〜夏 |
南陸奥国に張られた西軍の防衛線と東軍の大軍勢が睨み合っており、手勢に劣る伊達家としては均衡が崩れた瞬間に乗じて攻めるのが得策だと事態の推移を見守ろうとしたところ、プレイヤー本人にそんな根気が無く僅か1ターンで心変わり。出羽国の無人の檜山城・横手城・長谷堂城への侵攻と、南陸奥国の二本松城に先攻めを仕掛けてみる。この辺りの英断には裏があるのだが、後々明らかに。 片倉景綱「豊臣家との同盟を反古にするつもりでござるか!」 |
■1602年 秋〜冬 |
伊達秀宗(軍9政3魅11)の元服と豊作に浮かれる隙に、配下の桜田元親が徳川家に寝返ってしまう。未だ兵力が150前後に止まる伊達家にとって、兵力14の損失は結構痛い。傷口を広げぬよう急いで軍団一覧を確認すると、同盟を裏切る前に平均20あった忠義が見る影もなくなっており、屋代景頼・留守政景・後藤信康・楯岡満茂の4人が寝返り予備軍に化けていた。褒美を与えれば手っ取り早いが財政状況が心配され、とりあえず伊達政宗の魅力を信じて後方で敵城の包囲を命じて凌ぐことに。 |
■1603年 春 |
長谷堂城を冬に落城させた伊達家の主力を目下兵糧攻め中の檜山城に移し、越後国に陣を構える西軍からの反撃を封じておく。南陸奥国から攻め入るであろう敵への備えは用意出来なかったが、西軍討伐に忙しい東軍は伊達家の領地にはまだ興味が向かないようだ。2年前に起きた連続滅亡の衝撃が覚めやらぬこの春に豊臣秀頼まで討ち死にしてしまい、西軍の抑止力が急降下するのは確定だが。 ・石田三成が豊臣家の家督を相続します。 |
■1603年 夏〜冬 |
ここまで奥州地方で見事な戦いを繰り広げてきた西軍も、大量動員された東軍の前に抵抗敵わず会津若松城(南陸奥)に武将8・兵力118が籠城するに至った。この地に伊達家を乱入させて野戦で勝利を得られれば、豊沃な南陸奥国の半分弱を治められ、西軍武将の投降にも期待出来る。東軍の軍勢に大打撃も与えられる訳だから、この先に始まる全面対決を少しでも有利に運ぶ為には必要な行動であろうと、様々な思惑を秘めて会津若松城に武将6・兵力148を突撃させる強行策に出た。 二倍近くの兵力差があるも大将部隊さえ倒せばと血気盛んに挑んだが、標的が奥深くに位置する衡軛の陣で対応された上に川と森に移動を阻まれては冷静を取り戻し、要らぬ被害を受けない内に退却するのも止むを得なかった。しかしながら、檜山城・横手城の陥落により出羽国の統一を成している。 |
■1604年 春〜夏 |
先手を取れた利点を生かし休戦の成立を狙うも、兵力過剰となった東軍とは相通じず檜山城が元々の持ち主に奪い返され、白石城・長谷堂城も取り囲まれてしまう。ただ、前者を落とされて失った石高は軽微であり、次ターンには空城攻めに成功。また、後者を包囲する敵勢がどちらも武将1・兵力40で楽々始末を付けられたことから、東軍の軍団数を最小の労力で2つも減らせたと考えられ、むしろ喜んだ。 |
■1604年 秋〜冬 |
軍備・政略フェイズが徳川家よりも後で、合戦フェイズが徳川よりも先でなければ、どう足掻いても自領への流入を許してしまう悩ましい情勢になり、何度もリロードのお世話に。最終的には檜山城と白石城を先攻めで死守し、長谷堂城から出発した主力部隊が会津若松城での野戦に勝利する形で何とか落ち着いた。 |
■1605年 春 |
開始から5年経過した伊達家及び各地の情勢。 ●戦力 ・石高156 兵力187 所持金2850 南陸奥国の統一や関東進出が間近に迫り石高は短期間で飛躍的に伸びそうだが、収入の少なさから兵力の確保に懸念を抱く。かと言って、休戦からの空城攻めをしつこく繰り返しても、直轄領が有り余る相手には無意味なのが辛い。 ●武将 ・伊達政宗 知行42 兵数40 忠義 ─ 石川貞政 知行 3 兵数 4 忠義18 ・屋代景頼 知行 3 兵数 1 忠義 1 ・留守政景 知行 6 兵数12 忠義15 ・伊達成実 知行21 兵数32 忠義21 ・後藤信康 知行21 兵数33 忠義18 ・片倉景綱 知行21 兵数34 忠義24 ・志村光安 知行21 兵数19 忠義22 ・楯岡満茂 知行 0 兵数 1 忠義11 ・片倉重長 知行15 兵数 8 忠義25 伊達秀宗 知行 1 兵数 3 忠義25 重臣候補には事欠かない代わりに、この先の野戦で被害の軽減に必須の捨て駒を務める者が足りず、こちらの悩みも資金不足を招く遠因になるかもしれない。 ●大名家 ・徳川家 石高1120 兵力967 敵対:石田 伊達 ・石田家 石高 879 兵力336 敵対:徳川 西軍との争覇に実質的な決着を付けた東軍は不思議と成長が頭打ちになっており、一時はやり直しも検討したが継続しても大丈夫だろう。石田家の粘りがいつまで保たれるかが問題で、退路を絶たれて滅亡だけはご勘弁。 冬に攻略を完了した会津若松城は東軍に対する重要拠点としてレベル21に普請し、その場に集結させた武将9・兵力171で宇都宮城(下野)の武将7・兵力181を率いる徳川家康を襲撃。とりあえず勝つだけで、全滅も大名討ち取りも出来ないのは不満だが、周囲の敵城に仕掛けた先攻めの成功の方が展開上の優先順位が高く、リロードはしなかった。 |
■1605年 夏〜冬 |
桜田元親「ただ今より、伊達政宗殿にお味方つかまつる」 密かに送り込んだ間者が徳川家との全面対決を前に、貴重な援軍となる兵力35を携えて馳せ参じた──なんて脚本が脳内に。再び裏切られる失態は犯さぬよう、忠義値が同じく15の留守政景と共に褒美を取らせておく。もう一人の要注意人物である屋代景頼は忠義1と処置無しで、攻囲中の宇都宮城に単独配置させて圧倒的物量で押し寄せた東軍に身を委ねて解決した。 褒美以外にも檜山城の強化費を計上せねばならず徴兵は遅々として捗らないが、二本松城(南陸奥)の武将2・兵力80を全滅させての兵糧攻め、更に兵力250の救援部隊の追い返しに成功と、全体の流れは好調。冬の終了時点で南陸奥国は自城の会津若松城を敵軍が、敵城の二本松城を自軍が囲んでいる。 |
■1606年 春 |
大局を確認すると、凋落確実な石田家が兵力96まで落ち込んでいたのは予想に違わないが、肥大化が約束されたはずの徳川家まで兵力386に急落していた。両家は大決戦を起こさず山城国周辺で一進一退の小競り合いを繰り返していたが、ここ数ターンで大名家の滅亡はほとんど発生していないので退路遮断の成立は考えにくい。一体どのような手口で難敵に大打撃を食らわしたのか、あな恐ろしや石田三成。 何はともあれ、石田家と遠く離れた伊達家にとってはありがたいばかりの話で、会津若松城の敵勢も兵力僅か10前後の武将が12人と徳川家の厳しい現状を反映しており、教科書通りの徴兵を行っている当方には勝ち易い。順当に野戦で打ち破り、二本松城も同時に攻め落として奥州地方を完全掌握した。 |
■1606年 夏 |
東軍の様子がおかしい。前ターンの作戦フェイズで兵力510まで回復させたにも拘らず、このターンの開始時に半減とは酷過ぎる。その原因であるはずの西軍も兵力193から兵力85に弱体化している上に、逃げ道を封鎖された坂本城(山城)に一人残らず閉じ込められており、それ程までに多大な被害を受けるのは奇妙だ。 不可解なCPUの処理に首を傾げつつ、80万石まで膨らんだ大名直轄領を順次配分後、二本松城から太田城(常陸)に全軍団で侵攻。自軍の武将11・兵力188に対して武将17・兵力223が敵軍の不利な合戦も、大将の徳川家康の直属部隊が兵力16では相手にとって不足ありだった。 |
■1606年 秋〜冬 |
後手を取らないことには耐久力皆無の空城を複数狙われてしまい、みみっちくも順番を調整してやり過ごす。そのお蔭で宇都宮城の武将5・兵力82を全滅、同ターンでの排撃を目論んで攻め寄せた武将9・兵力116にも潰走をお見舞いした。尚、滅亡の危機に瀕していた石田家は越前国への脱出に成功し、徳川家に勝るとも劣らない規模まで持ち直している。 |
■1607年 春〜冬 |
西軍が活力を取り戻したが為に、太田城の落城を手始めに関東地方を続々と切り取る伊達家に、主戦場でのやり繰りすら苦しい東軍は対応の術を失った。時折、少数の守備兵を派遣したり反撃の機を窺ったりしては容易く始末され、力関係が石田家+伊達家>徳川家に変化した今となっては蟷螂の斧と言った風情。この冬に留守政景が寿命を迎えたものの、あまり悲しまなかった。 |
■1608年 春〜冬 |
前年から勢い付いた流れのまま下総国で徳川家康の命を討ち止め、伊達家の西進を阻む障害は消えたも同然に。ただ、未だ2000に満たない定期収入と頻発した野戦により常駐兵力が200を上回れず、石田家との決戦を睨んで決戦投入用の戦力の温存を心掛ける時期だろう。 ・本多忠朝が徳川家の家督を相続します。 |
■1609年 春〜冬 |
前述の通り、1607年と1608年はとても安全で平和に進行したが、1609年に至っては敵軍と未遭遇と言う緊張感の無さで、最前線は悠々と上野国・武蔵国に到着。その余裕さの余り、力攻めも解禁した。ちなみに、雪の行動不能を避けようと北陸地方には足を踏み入れていない。 |
■1610年 春 |
開始から10年経過した伊達家及び各地の情勢。 ●戦力 ・石高455 兵力355 所持金19 5年前に抱いた心配も何のその、東軍とは小規模な衝突しか発生せず困りもしなかった。あとは石田家との兼ね合いさえ気にしておけば、近い内にエンディングを迎えられるだろう。 ●武将 ・伊達政宗 知行164 兵数40 忠義 ─ 石川貞政 知行 30 兵数39 忠義25 ・伊達成実 知行 36 兵数40 忠義25 桜田元親 知行 30 兵数36 忠義25 ・後藤信康 知行 33 兵数40 忠義25 増田盛次 知行 30 兵数15 忠義20 ・片倉景綱 知行 36 兵数40 忠義25 ・志村光安 知行 33 兵数40 忠義25 ・片倉重長 知行 33 兵数28 忠義25 伊達秀宗 知行 30 兵数37 忠義25 頭数が減っているのは先程まで、敵将の寝返りを受け入れる→捨て駒にする→あっさり戦死を数人分繰り返し、収入=捨て駒と支出=戦死の清算がちょうど済んだ為で、少数精鋭で苦労した訳ではない。 ●大名家 ・本多家 石高 819 兵力253 敵対:石田 伊達 ・石田家 石高1008 兵力325 敵対:本多 武将数がそれぞれ14人と13人では、余りある石高も宝の持ち腐れ。単純な戦術の失敗さえ犯さなければ、リロードの必要も無いと思われる。 伊達軍の前に久し振りに顔を見せた東軍は、八王子城(武蔵)の武将1・兵力40と玉縄城(相模)の武将3・兵力71で、ここでも定跡通りに退却されないよう調整を施して出陣。もちろん、本多家の滅亡で広大な領地を奪う権利を持つこともあるが、不確定要素が消えて成熟した局面では東側優先の遺領配分の有利が受けられなかったとしても、プレイ時間を短くしたいプレイヤーは同様の戦略を選ぶだろう。 |
■1610年 夏〜冬 |
この期間の交戦履歴は、小諸城(信濃)の武将4・兵力69と小田原城(相模)の武将2・兵力31を全滅させたのみで、双方とも冬の終了までに落城させている。 ・酒井家次が本多家の家督を相続します。 |
■1611年 春〜冬 |
春の開始時点で武将3・兵力87まで衰弱した東軍を、CPU勢力特有の詐欺紛いの脅迫によって西軍が取り込む前に一掃出来たお蔭で、所有石高が瞬く間に607万石から940万石に伸びた。ただ、滅亡前の堀尾家が548万石だったことを考えると、石田家に転がり込んだ城も多かったらしい。 ・堀尾吉晴が酒井家の家督を相続します。 ・堀尾家が滅亡しました。 |
■1612年 春 |
武将12・兵力436の伊達家と武将15・兵力480の石田家による最終決戦が幕を開け、こちらが主導権を握れたことから決戦の地を自領・三河国と敵領・尾張国の境界に指定した。これは街道の繋がりが「敵城1に対して自城2」の三角形かつ、前線から見て奥手の岡崎城(三河)が城レベル28と大軍の兵糧攻めに耐えられる堅さで、退路遮断の戦法に適した形状であったことが理由。主力をもう片方の刈谷城(三河)に配置して石田家を刺激、誘いに乗った石田軍がもぬけの殻の岡崎城に気を取られている内に侵攻元の鳴海城(尾張)を占拠して退路を遮断、時を移さず包囲軍の背後を突けば一網打尽と言う算段である。 結果としては、長篠城(三河)にごく少数の別動隊を組織した以外の全軍団を刈谷城に集結させたものの、総兵力で頭一つ抜け出す石田軍に攻撃の矛先をそちらに向けられてしまい、失敗。下手に反撃すると敗戦側の士気が急落して今後の戦闘を成立させにくくなる為、この場は刈谷城を敵に渡して収めた。 |
■1612年 夏〜秋 |
運に左右されない確実な退路遮断を今年中に実現しようと、金8352を注ぎ込んで岡崎城をレベル60に強化。それを見た石田家は軍勢を鳴海城に武将11・兵力332を、刈谷城に武将5・兵力161を割り振る。作戦フェイズでは先手で岡崎城から鳴海城に侵攻、敵方の士気が足りず全滅を採用させることは無理だったが、刈谷城に敗走した石田軍が間髪入れず無人の岡崎城に攻め寄せてくれて、御の字。秋には刈谷城を奪い返し、現在位置と周囲から自城を失い数的にも不利な石田家は必至となった。 |
■1612年 冬 |
天下統一を間近に控えた伊達家の状況。 ●戦力 ・石高909 兵力441 所持金27532 石高の減少は飢饉による。台風に遭遇しにくい奥州地方出身であるせいか、不利益なイベントに直撃されてのリロードはしていない。 ●武将 ・伊達政宗 知行473 兵数40 忠義 ─ 石川貞政 知行 40 兵数40 忠義25 本多忠政 知行 40 兵数40 忠義25 堀忠俊 知行 0 兵数 1 忠義23 ・伊達成実 知行 50 兵数40 忠義23 増田盛次 知行 40 兵数40 忠義25 桜田元親 知行 40 兵数40 忠義25 ・後藤信康 知行 45 兵数40 忠義25 ・片倉景綱 知行 50 兵数40 忠義24 ・志村光安 知行 45 兵数40 忠義25 ・片倉重長 知行 45 兵数40 忠義25 伊達秀宗 知行 40 兵数40 忠義25 一度は裏切った桜田元親の忠誠心が、かつて描いた脳内脚本を補完させてくれている。その代わりか、序盤から八面六臂の活躍で知行も優遇していたはずの伊達成実と片倉景綱の様子が危うい。何が気に入らないのか、お前たちは。 岡崎城包囲中の石田軍、武将15・兵力214と小豆坂の戦い。石田三成はこの期に及んで最後の抵抗として、本陣の移動力を行使せず後方に居座り、武勇に優れた島津義弘や長宗我部盛親を前線に躍り出しての正面突破に賭ける。しかしながら、この死に物狂い作戦もかつて徳川家に食らわしたような波乱を巻き起こすことはなく、伊達軍は機械的に己の仕事を全うするだけだった。 ・石田家が滅亡しました。 1612年 冬 伊達政宗は天下人となった。 |
■あとがき |
大苦戦が免れないはずのシナリオ4・外様大名での挑戦は、拍子抜けするくらい簡単に終わってしまいました。秋田家の謀反に由来する近隣の情勢変化と、開始1年で多数の軍団を失い虫の息だと思われた西軍の奇跡の復活と、何が何やらわからぬまま兵力を削がれてゆく東軍の謎の失態により、中盤からは工夫いらずの単純作業に。こんな内容だと攻略には役立たないでしょう。 とは言っても、このリプレイが成立するまでに相当な回数のやり直しが求められ、今までよりも段違いの手間が必要だったことも確かでした。それは東軍が早い段階で西軍を叩きのめし、対処不可能な規模の討伐隊を伊達家に仕向ける展開に陥ってしまうと、頼りのリロードも役に立たないのが原因。そのような「駄目だったらまた最初から」の事情に裏打ちされて、1602年の英断は実行出来たのが真相です。 |