■関ヶ原 上杉家リプレイ
 
 大名:C 戦力:B 配下:A 地利:A 難易度:中級
 
●戦力
・石高137 兵力142 所持金 ─
 
 毛利家と同等の大きな規模と、他を圧倒する優位な地利に裏打ちされ、全外様大名として最高の座は揺るぎない。運に依存しなければならない時期が短い上にパターン性が強めで、正々堂々に拘っても勝負形に持ち込める。
 
●武将
・上杉景勝  軍事10 政治15 魅力16 士気14 忠義 ─
 多賀谷重経 軍事 6 政治14 魅力 4 士気 ─ 忠義11
・直江兼続  軍事15 政治18 魅力10 士気15 忠義21
 前田慶次  軍事13 政治 1 魅力10 士気 ─ 忠義 9
 甘糟景継  軍事 6 政治12 魅力 7 士気 ─ 忠義14
・本庄繁長  軍事16 政治11 魅力11 士気16 忠義12
・岩井信能  軍事 1 政治11 魅力10 士気 6 忠義16
・下吉忠   軍事13 政治 3 魅力 8 士気13 忠義13
・須田長義  軍事12 政治 7 魅力 9 士気14 忠義12
・車斯忠   軍事 5 政治11 魅力 8 士気12 忠義13
・結城朝勝  軍事 7 政治15 魅力14 士気18 忠義15
 
 深刻な人材不足に悩まされがちなシナリオ4で、軍事・政治・士気に明るい面子が最初から多数だ。これで心置き無く、寝返り好きな多賀谷重経・前田慶次・本庄繁長の首を切れる。一揆が起こらず、士気が十分で、配下の忠義も安定と、景勝の大名に相応しい素質も非常にありがたい。
 
●外交
 同盟が不要なので気にしない。CPU大名のように謀反後も大名関係が継続するのなら、西軍との同盟がほんのり嬉しいのかも。
 
 
 以前の伊達家リプレイより低い難易度を踏まえ、今回はノーリロードで進行します。領地拡大が全く出来ず、各自城を囲んだ東軍を無理にでも全滅させて気長に機会を窺うも、西軍が早々と弱体化してしまった為に4年でリセット。奥州地方統一までは最善手級の手際だったのに、休戦中の東軍に対して後手を引けた瞬間に空城攻めに転じる段階から、まさかの6ターン連続先手→逆に猛烈な空城攻めを受け、会津若松城の喪失で石高が激減した為に5年でリセット。以下、3度目の挑戦です。
 
■1600年 春〜夏
 
 シナリオ4の上杉家にとって定跡を超えて常識な、初手の謀反を実行。治水開墾に巨額が投じられたのか、南陸奥国の収穫量は18年前から3倍に膨らんでおり、会津若松城(南陸奥)・二本松城(南陸奥)・長谷堂城(出羽)を西軍より接収するや否や、当家の石高は100万を超えた。この3城は全てが耐久度30以上の堅牢さで、もしもの時に心強い付加価値もあり。順番は最初で、結城朝勝の加増、全武将の重臣抜擢、限界までの徴兵を行った後、二本松城に全軍団を移動。序盤から関東地方に出ては大雪による帰宅困難が不安なので、石高74万と豊沃な北陸奥国を狙ってゆこう。
 当家に対し、西軍は武将7・兵力79の佐竹軍を太田城(常陸)に、東軍は武将7・兵力102の伊達軍を白石城(北陸奥)に配備した。無防備な会津若松城と隣り合う宇都宮城(下野)にも武将10・兵力130の東軍が置かれたが、これは古河城(下総)の武将9・兵力116と共同で太田城を攻める為だ。ここでは太田城に先攻めを仕掛け、総掛かりで伊達軍を根絶やしにしてやろうと意気込むが、結果は伊達軍による長谷堂城への兵糧攻めと引き換えに白石城を無血で獲得となった。
 
■1600年 秋〜冬
 
 仙台城(北陸奥)の武将5・兵力64への先攻め、霞ヶ城(出羽)の武将3・兵力40への全滅に加え、長谷堂城を落とし立ての伊達軍に退路遮断が決まり、伊達成実(軍18政5魅11)・後藤信康(軍15政10魅4)・片倉景綱(軍16政16魅9)が配下に。また、北方以外で成立した休戦を活用し、菖蒲城(越後)を包囲して奥州東軍の孤立化を実現。どちらも東軍より順番が遅かった恩恵で、特に有能な家臣候補3人が強制討ち死にしていたら、継続意欲は半減だった。冬は大雪に覆われながら、早くも東日本に軍団がいない西軍からの降伏勧告を受け流し、徴兵や人事で束の間の休息を楽しむ。
 
伊達成実「有難き幸せ!」
片倉景綱「必ずやこの大恩に報いまする」

 
■1601年 春〜夏
 
 寺池城(北陸奥)を百姓一揆が乗っ取り、仙台城で東軍の武将5・兵力76が身動きを封じられたものの、残念ながら我々の到着よりも奴らの脱出が先んじた。他に、休戦中の東軍から不意に南陸奥国を攻撃されぬように、関東地方に空城攻めをしておく。霞ヶ城・仙台城・宇都宮城・太田城を包囲中で、菖蒲城が落城。
 
■1601年 秋
 
 早期の街路封鎖が功を奏し、狭き一地域に閉じ込めた奥州東軍の兵力は、現在の上杉家と互角な200でしかない。しかし、得たばかりの菖蒲城を檜山城(出羽)から貫かれれば台無しだ。故に先手を取れた幸運を活かし、包囲中の霞ヶ城に可能な限りの守備兵を置き、全奥州東軍が奪還に押し寄せてくれるように期待した。それは現実のものとなり、数字上は劣勢な野戦にも大将部隊への集中攻撃で勝利。尚、翌季節の大雪で敵地に取り残されては大変と、関東地方からは撤収している。
 
■1601年 冬
 
 西軍・東軍は近畿地方を戦場に、滅亡や寝返りが引っ切り無しと表裏で鍔迫り合いを演じており、共に兵力は800程度。東軍は当家のちょっかいの分だけ不利かと思いきや、西軍も今冬に鍋島家による美作国・讃岐国での挙兵を許しており、上手い具合に均衡が続いてくれそうだ。
 
■1602年 春
 
 東軍の動静を見てから、新規の檜山城と天神山城(越後)を含めて空城攻めを再開。また、奥州東軍の大将候補の士気が著しく低いと気付き、霞ヶ城の奪還戦を誘発して潰走を得ておく。
 
■1602年 夏〜冬
 
 霞ヶ城を落とし、檜山城を囲み、横手城(出羽)に虜とした奥州東軍。兵力こそ三桁を保つが、武将13かつ士気2では野戦毎に疲弊を重ねるだけであり、冬を乗り越えられずに絶滅と相成った。あと、春に後手で太田城を落とす→夏に先手で休戦を維持と、順番の運も好調だ。
 
■1603年 春〜夏
 
 人員整理の頃合と、攻囲中の檜山城に本庄繁長・多賀谷重経・前田慶次・岩井信能を引き摺り入れ、忠義1・1・4・13を力攻めで処分した。今後も同用途の為に檜山城は放置しておこう。
 奥州地方制圧を果たして石高は200万を突破。後手を授かった順番は明らかな追い風で、太田城を起点に誰もいない関東地方へ広範囲に雪崩れ込み、領地拡大の勢いを一気に加速してゆく。この辺りは奥州地方と違って耐久度が低く、宇都宮城・古河城・府中城(常陸)を即獲得出来た。
 
■1603年 秋〜冬
 
 本年の開始時点で66人の武将を抱えていた東軍は、外様大名の滅亡情報によれば西軍に2度の大敗北を喫したらしく、現在は30人しかいない。それに準じて兵力も390まで急減しており、兵力250の上杉軍に組織的抵抗は行えず、城攻めついでの各個撃破が捗るばかり。
 
■1604年 春〜冬
 
 主力の矛先は武蔵国と上野国へ。また、遊軍で密やかに行ってきた越後国の摘み取りも完了しつつあったが、いつの間にやら西軍の最前線が越中国の半分まで達していた。兵力四桁との衝突はまだ避けたいので、耐久度29を残す東軍の春日山城(越後)は堰に逆用しよう。
 
■1605年 春
 
 開始から5年経過した上杉家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高431 兵力400 所持金73
 
 伊達家リプレイと比べれば倍以上の数値で、本プレイの直前に2回失敗した際の腹立たしさは解消。悩みは定期収入が未だ2000に満たず、秋の収入をすぐに使い果たしてしまうことくらいだ。
 
●武将
・上杉景勝 知行88 兵数40 忠義 ─
 太田長知 知行 0 兵数 1 忠義14
・直江兼続 知行36 兵数40 忠義25
・下吉忠  知行30 兵数33 忠義25
・須田長義 知行30 兵数37 忠義25
・車斯忠  知行30 兵数28 忠義25
・結城朝勝 知行30 兵数40 忠義24
・甘糟景継 知行30 兵数40 忠義23
・伊達成実 知行33 兵数40 忠義24
 後藤信康 知行30 兵数40 忠義22
・片倉景綱 知行33 兵数40 忠義23
・島津忠恒 知行30 兵数12 忠義25
 山田有栄 知行30 兵数 9 忠義25
 
 下の2人は島津家滅亡の折りに降伏してきた新鋭で、伊達家家臣に続いて有名大名家から有能武将が加入。欲を言えば、西軍との初戦までに捨て駒を増やしたい。
 
●大名家
・徳川家 石高 532 兵力 281 敵対:上杉 豊臣
・豊臣家 石高1047 兵力1150 敵対:徳川 鍋島
・鍋島家 石高  34 兵力  33 敵対:豊臣
 
 裏切りへの恨みを共闘への喜びが勝り、上杉家と豊臣家は自然と友好関係に。徳川家は東海地方との連絡を絶たれており、南近畿〜東四国で必死の抵抗がいつまで維持されるか。鍋島家は健闘及ばず、阿波国で西軍と東軍に挟殺状態に追い詰められて絶体絶命だが、西軍の伸張を妨害してくれたことに謝意を伝えたい。
 
 
 東軍が西軍から立ち入り禁止を食らわされた関東地方に、上杉軍の快進撃を阻める者は1人も生き残っておらず、十八番の空城攻めで上野国・武蔵国の統一に王手を掛けた。
 
■1605年 夏
 
 西軍領の東端は上田城(信濃)・新府城(甲斐)・富山城(越中)で、これらと上杉領を隔てる東軍領には健全な耐久度の城が建ち並んでおり、目先の石高に飢えていない現状では春日山城と同様の扱いが好手か。その上で相模国から東海地方への進路は自力で開拓してゆこう。
 
■1605年 秋〜冬
 
 四国地方への珍しい大雪が招いたか、別れの季節が到来。東軍では1人が、西軍では3人が、上杉家では車斯忠が寿命死を迎え、直接の接点は無い心の中だけの盟友も切腹でお陀仏となった。
 単調な城攻めで数年を潰してきた我が軍も、小諸城(信濃)包囲中の西軍を見るや満を持して出陣し、初手の謀反以来の敵対関係を戻すと同時に、武将3・兵力120を綺麗さっぱりに掃討した。この形を幾度と繰り返し、敵武将を徐々に減らしてゆきたい。
 
・鍋島家が滅亡しました。
 
■1606年 春
 
 200万石の大名直轄領と、裏工作の得意な人材と、小諸城を奪回せんと布陣した西軍の大群を利用し、寝返りを唆してみた。基本知識「寝返り成否」に倣い、見返りには48万石を提示する。
 
直江兼続(政18)「手抜かりはございませぬ」
└片倉重長(忠24兵37)「恩を仇で返すような事は出来ぬ」
片倉景綱(政16)「我らの陣営に馳せ参じる事でしょう」
└滝川忠征(忠1兵24)「策にはのらぬ」
上杉景勝(政15)「是非にも小出吉政は味方にするのじゃ」
└小出吉政(忠22兵40)「恩を仇で返すような事は出来ぬ」
後藤信康(政10)「吉報をお待ちあれ」
└石川忠房(忠7兵23)「出直して参れ!」

 
 よもやの全敗に動揺は隠せないが、奪回を断念させるのに必須の兵力400は自前で用意した。武将8・兵力203の上田城(信濃)に攻め、武将6・兵力178の新府城(甲斐)に攻められ、どちらも相手方の低い士気を突いて安全勝ちを収める。
 
■1606年 夏
 
 前節で大戦果を受けてしまうも討ち死には免れた須田長義を、療養の為に後方へ下げなければならない影響もあり、対峙兵力の微妙な差を埋められない。ただ、西軍の順番が先となった分で当方が有利な戦術を使え、上田城から一時撤退→徴兵→新府城への先攻め→上田城への侵攻及び落城と、結果に不満無し。
 
■1606年 秋〜冬
 
 寺沢広高と里見民部が西軍を見切り、兵力42が上杉軍に合流。自らの寝返りは石高や褒美の大量投与が不必要だし、この調子で次々に志願者が現れてもらいたい。知略では2人の取り込みに成功し、武力では海津城で武将3・兵力81を全滅させ、西軍の武将数は今春開始の47人から今冬終了で41人に減った。
 
・亀田高綱が徳川家の家督を相続します。
 
■1607年 春〜冬
 
 大黒柱の落命で族滅された東軍は、全戦力の武将10・兵力134が紀伊国に籠の鳥。上杉軍は西軍に連戦連勝ながら兵力差は1倍半〜2倍の不利で推移し、弱者が強者を誘引してくれている間に決定打を与えたい。しかし、西軍は大将候補の元々低い士気が連戦連敗で余計に悪化したのが逆に困りもので、確実に敵武将を討ち取れる全滅の採用率が、戦闘数に対して半分以下と芳しくない。この場は事態打開に高遠城(信濃)と府中城(甲斐)を普請し、前者に大群を押し寄せさせた。
 
・亀田家が滅亡しました。
 
■1608年 春
 
 兵力優位な西軍から先手で侵攻を受け、こちらの侵攻が封じられがちだったものの、今は亡き東軍から東側優先の形見分けも受けて、越後国・信濃国・甲斐国・相模国を独占。西軍の兵力は高遠城の包囲継続に467、昨冬に一度の兵糧攻めで落ちたばかりの深沢城(駿河)の防衛に276と程良く二分されたが、肝心の士気が相変わらずで正攻法だと対応しにくい。有り体に言えば既に残務処理風な戦況で、無価値な野戦の循環に時間を費やすのは避けたいし、もう割り切って奥の手を仕込もう。
 
■1608年 夏
 
 深沢城を出発した西軍を韮山城(相模)で足止めしつつ、上杉家の知らぬ間に廃墟と化していた小田原城(相模)を再建し、防御壁を二重に。高遠城の西軍は三手に分散。秀頼率いる武将15・兵力372には春日山城を明け渡しておいて、その隙に甲州地方で武将3・兵力81と武将4・兵力116へ待望の全滅をお見舞いし、街路封鎖の要所である駿府城(駿河)も確保出来た。
 
■1608年 秋〜冬
 
 深沢城と韮山城が連なる区画を飛び地とし、武将11・兵力307を退路遮断の餌食に。生前の彼らは回復の見られない士気を余所に、2度に渡って小田原城に無謀な突入を敢行してきたが、天然の要害を活用せずとも瞬時に払い除けられている。
 
■1609年 春〜秋
 
 西軍の武将14・兵力501に対して上杉軍の武将20・兵力552と、遂に戦力が逆転。ここからは軍団配置で主導権を握れるので詰め将棋的に手順を決め打ちし、強固に普請した駿府城に全敵軍を招き入れ、取ったり取られたりを繰り返してきた高遠城を取り返し、その先の掛川城(遠江)を抑えて街路封鎖と、目論見通りの投了図を描けた。
 
■1609年 冬
 
 天下統一を間近に控えた上杉家の状況。
 
●戦力
・石高698 兵力597 所持金6106
 
 開幕から終幕まで快調な成長は止まらず、戦力面の悩みは無いに等しい。シナリオ4で急騰した北陸奥国と南陸奥国の石高様々である。
 
●武将
・上杉景勝 知行99 兵数39 忠義 ─
 小出吉政 知行60 兵数40 忠義21
 有馬豊氏 知行20 兵数32 忠義21
・直江兼続 知行48 兵数40 忠義25
 妻木頼忠 知行 0 兵数 1 忠義20
 石川忠房 知行 0 兵数 1 忠義13
 伊藤盛正 知行 0 兵数 1 忠義 8
 加藤正方 知行 0 兵数 1 忠義22
 繁沢元氏 知行 0 兵数 1 忠義23
 新庄直頼 知行 0 兵数 1 忠義20
・島津忠恒 知行42 兵数40 忠義25
・山田有栄 知行42 兵数40 忠義25
 寺沢広高 知行42 兵数40 忠義15
・下吉忠  知行42 兵数40 忠義25
・須田長義 知行42 兵数40 忠義25
・結城朝勝 知行42 兵数40 忠義25
・甘糟景継 知行42 兵数40 忠義25
・伊達成実 知行45 兵数40 忠義25
 吉川広家 知行42 兵数40 忠義25
・片倉景綱 知行45 兵数40 忠義25
 後藤信康 知行42 兵数40 忠義25
 
 個々の高い軍事と政治はもちろん、景勝と配下の厚い信頼関係が貧乏とノーリロードの二重苦に優しかった。ただ、あまりに好都合な展開に終始した反動で、リプレイに物語性を感じさせるような活躍は皆無な気も。
 
 
 野戦で勝ちに勝ち続けた10年間の総仕上げに、駿府城外で立ち往生の西軍全軍団を例によって例のごとくの勝利条件で一網打尽とし、天下分け目の合戦にしては呆気無い結末…のはずが、小雨に紛れて捨て身で突進してきた織田信良先導の騎馬隊により、懐刀の結城朝勝が討ち死に。最後の最後で一矢報いられ、ちょっぴり悔しい。
 
・豊臣家が滅亡しました。
 
 
1609年 冬
 
上杉景勝は天下人となった。
 
 
■あとがき
 
 本リプレイの所要時間は僅か140分で、約20年の全クリア履歴で最速記録かもしれません。シナリオ4の外様大名は元より無理筋なのを承知し、小さな可能性を根気で積み重ねてゆくものであり、上杉家の恵まれ過ぎな環境はとても快適でした。とは言え、ノーリロードでは不意に致命傷を負わされる恐れが消せず、シミュレーションの面白みを犠牲に実利的な幕切れを優先したのは、焦りの表れでもあります。その理由は概ね、直前の2度の失敗経験です。
 プレイヤーが東日本の第三極となった際に問題なのは、西軍の急成長を促進してしまうこと。今回は幸い、讃岐国付近を長々と掻き回した鍋島家の見事な粘り腰により、中央の力関係が破綻しない内に関東地方を掌握出来ています。この貢献を称えて最優秀武将賞を鍋島直茂に…と、図らずも龍造寺家リプレイと同じ締めになってしまいました。
 
 
 
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