■最短クリア挑戦
 
 条件は「シナリオは群雄割拠」「大名は誰でも可」「ノーリロード」です。
 
 
■1回目 選択大名:上杉家
 
●1555年 春〜夏
 有力勢力の中では遺領配分で最適な位置におり、武田家や今川家と違って仕官してくる武将の質に恵まれない分、運悪く取り逃がしても悔しくないのを前向きに捉え、初回は上杉家を選択した。西日本の制圧を任せる今川家との同盟と、人員整理を兼ねた沼田家攻めから始める。首切り候補は北条高広・大熊朝秀・本庄実乃。
 
●1555年 秋〜冬
 石高16・兵力9の扇谷上杉家への降伏勧告に失敗も、改めて向こうから頭を下げに来てくれた。また、冬には武田家から兵力85の攻撃に晒された山内上杉家への脅迫に成功する。甲信地方は大雪に埋もれており、兵力139の上杉・山内上杉共同軍で箕輪城(上野)の軍勢に退路遮断をお見舞いすれば、武田家は武田信繁を残して壊滅。
 
●1556年 春〜夏
 河越城(武蔵)から北条軍を追い払うだけのつもりが、図らずも他勢力との連携が生まれて再び退路遮断が成立し、北条家が瞬く間に消滅。遺領は得られなかったものの、北条綱成と大道寺政繁を生け捕りに出来た。尚、西側は瀕死の武田家を今川家が見逃さずに国境を侵しており、武田家滅亡時における不可抗力の同盟崩壊が心配されて手を出しにくい。他に、椎名家から助けを求められるままに受け入れたが、包囲軍の本願寺家を退治したら朝倉家との関係が微妙になる為、見捨てよう。
 
●1556年 秋〜冬
 佐竹家及び里見家攻めを開始。後者は2回の交戦で死に絶え、常陸国・下総国・上総国の4つの城を纏めて獲得した上杉家は200万石弱に。
 
●1557年 春〜冬
 進物が初めて届いたり、佐野家から服従の意志を伝えられたりの、嬉しい一年。ただ、武田領獲得権の大方を譲った今川家は兵力50を維持するのもままならない情けなさで、甲信地方は一向に安定してくれない。佐竹家ですら倍近くあるのに、何をてこずっているのか。
 
●1558年 春〜冬
 信濃国の今川領に斎藤家が全軍団で侵入してきたので、落ちたばかりの城を横取りしていこうと小賢しく後を追う。また、下総国と常陸国に百姓一揆が発生して冷や汗を掻いたが、どちらも佐竹領であった。民衆の反乱で下り坂となった佐竹家を南陸奥国で滅ぼし、その流れの中で蘆名家を外様大名に組み込んで、当家の戦力は冬の終了時点で石高313・兵力422に拡大。
 
●1559年 春〜夏
 当面は奥州地方の平定を目指すが、長らく緊張状態が続いた魚津城(越中)の本願寺軍が逆方向から攻められて籠城したのを契機に、北陸地方にもちょっかいを出してみる。城を囲むのは当然朝倉家かと思いきや、畠山家義綱で驚かされた。
 
●1559年 秋
 鈴木家→三村家→宇喜多家と、『天下布武』名物の連鎖的な降伏願いに全て承諾。鈴木家は普段通りの場所にて周囲との均衡が取れているので静観、宇喜多家は武将が4人おり上手くいけば四国地方に一定の影響力を持てそうなので補強、三村家は朝倉家を攻めているが単独では如何ともし難いので無視でいいだろう。石高173・兵力154の吉川家からの圧力に屈しそうな宇喜多軍への協力を願って、石高166・兵力285で九州地方の覇者間近の大友家に同盟を持ち掛けると、快い返事がもらえた。今川家が尾張国から先に一歩も進まなかった分、西の勢力には頑張ってもらわないとならない。一方の主戦場では、今川領内で繰り広げられた斎藤家との鬼ごっこを岡崎城(三河)で終わらせ、今川家と手切れする決断も下した。
 
●1559年 冬
 前ターンからの勢いが余り、南九州の狭い範囲を治める島津家にまで降伏を許してしまい、大友家との良き関係は何ももたらさずに自然崩壊。領地を切り取られて大名直轄領を圧迫されるのは辛いので、次に侵攻を受けた際には無抵抗の籠城で一括処分を決め込む。また、甲斐国にて今川家を三方から取り囲んで滅亡に追い込んだが、随分と前に虫の息になった武田家は最後の一兵が小田原城(相模)でまだ抵抗していたりする。
 
●1560年 春
 偶然にも絶妙な時期に今川家を滅亡させたみたいで、榊原康政と本多忠勝が同時に仕官してくれた。尚、現在の有力勢力は松永家が石高72・兵力128、朝倉家が石高203・兵力253、吉川家が石高182・兵力152、大友家が石高182・兵力294で、上杉家は石高586・兵力607となっている。
 
●1560年 夏〜冬
 同盟国の安東家を除いて奥州地方を掌握したが、脅迫に従ってくれたのはいつも気弱な大崎家だけで相当な手間が掛かった。その代わりに四国地方では、宇喜多軍の威圧で三好家を屈服させている。
 
●1561年 春〜秋
 北近江国・南近江国にて朝倉家と本格的に開戦。宇喜多軍・三好軍は鈴木軍と連動させて、和泉国に上陸。上杉軍主力も大和国まで到達して、遠方の地より上杉家を駆け込み寺にした彼らの救出を完遂。
 
●1561年 冬
 石高811・兵力848の大所帯に、石高64・兵力75の吉川家も加わることを望んだ。これで大友家とも本格的な開戦となり、早期のクリアを見越して敵の武将数を減らすように心掛ける。野戦では可能な限り全滅を狙う他、大量の見返りを約束にした引き抜きも多数。
 
●1562年 春〜秋
 近畿地方を席巻。松永家と朝倉家の滅亡で、残るは大友家のみ。
 
●1562年 冬
 大友家は秋の合戦フェイズ開始前には475の兵力を抱えていたが、速攻で各個撃破した結果、86の全兵力が月山富田城(出雲)を攻囲するも逃げ道を完璧に塞がれている、必至の形が出来上がった。つまり、ここで天下統一となるはずだが…?
 
●1563年 春
 実は安東家と延暦寺家の同盟を破る機会を逃していた。後者は別に問題無かったが、前者への侵攻を大雪に阻まれてしまったせいで余計な1ターンが生じた訳である。
 
■1回目あとがき
 
 このリプレイを制作する直前、最短クリアを初めて意識しつつプレイした今川家での記録が1565年の春だったので、想像よりも良い結果になりました。配下武将の素晴らしい軍事力のお蔭で序盤から力攻めでガリガリと城の耐久度を削れるのは今川家には無い魅力で、幾つかの候補から上杉家を選んだのは間違いでは無かったと思います。全体の流れとしては、武田家と北条家を簡単に処理した出足がこの上無く順調だった反面、戦下手な今川家が全く西進してくれなかったのは逆風でしたから、リロード禁止のままでも記録更新にはまだ余裕がありそうです。
 
 
■2回目 選択大名:上杉家
 
●1555年 春〜秋
 特に凝ったことはせずに1回目と同様の手順で進めると、木曽家が武田家に降伏しないまま今川家に滅ぼされる珍しい展開になる。籠城した沼田家は2度の兵糧攻めで、降伏勧告を拒否した扇谷上杉家は力攻めで片付け、武蔵国に到着。
 
●1555年 冬〜1556年 夏
 江戸城(武蔵)に全員集合した北条家を見て、この場で強引にでも滅亡させようと意気込んだものの、侵攻軍の到着前に山内上杉家に囲まれた自城を取り返しに行かれて失敗。翌年の春にも僅かな兵力差しかないのに先手で攻められて再度の失敗に落胆するが、腐らずに跳ね返しておき作戦は夏に成就した。
 
●1556年 秋〜冬
 上杉家が石高109・兵力131を率いて下総国に進出したところで、ようやく山内上杉家の平定に乗り出した武田家。箕輪城(上野)の包囲には武将10・兵力89の全軍を動員しており、兵力47を城壁内に閉じ込める山内上杉家が脅迫に従ってくれなかったのを無念に思いつつ、こちらも同盟国への救援を隠れ蓑に武将9・兵力136を出兵させて両家には纏めて消滅してもらった。お蔭様で大量の石高と武田家の優秀な家臣を得られたが、甲信地方に大雪が降らなかったせいで辛抱強く全滅を狙う必要があった分、かなりの深手を負ったのも確かである。
 
●1557年 春〜秋
 東関東における主導権を握った佐竹家は百姓一揆の頻発と当家のちょっかいで昨年に崩壊しており、二番手の里見家も普請済の国府台城(下総)に誘い出した形から主力を壊滅させた後、残党を処理。これで越後国・武蔵国・相模国・上野国の支配地域に、下総国・上総国・常陸国が加わった。春の開始時点には71に過ぎなかった兵力も、秋の終了時点で124まで回復している。
 
●1557年 冬
 我が盟友の椎名家が、本願寺家の関心を受け流して中堅勢力に育った畠山家に総出で苛められているのを見逃す訳にはいかず、畠山家諸共討ち滅ぼして遺領総取り権を行使。また、今まで手付かずだった下野国にも触手を伸ばす。
 
●1558年 春〜冬
 朝倉家を追い出して越前国一帯に地盤を固めた本願寺家と接するが、夏までは休戦協定により交戦には至らず兵力を蓄えつつ周辺各国の取り込みに没頭して、秋に余った人手で空城攻めを開始。ここで悠長に構えていると、近畿地方に通じる道を今川家に封鎖されて最短クリアが遠のいてしまうだろう。現状の勢力図は上杉家の石高362・兵力275を筆頭に、石高291・兵力323の今川家と石高147・兵力154の陶家が続き、100万石以下には松永家・本願寺家・波多野家・大友家・島津家が並んでいる。
 
●1559年 春〜冬
 奥州勢が今川家に降伏されては難儀であり、行動確認後の脅迫と力攻めで始末していく。恭順の意を表したのは大崎家・最上家・葛西家・南部家で、丹波国・因幡国まで前線を広げた西方向でも一色家を屈服させた。更には中国地方から山名家を、四国地方から三村家・宇都宮家を乞われるまま仲間に迎えたものの、近畿地方に未だ複数の弱小勢力が残存しているのは懸念材料である。
 
●1560年 春〜秋
 四方から兵力240による圧力を掛けられても独立を維持せんとした蘆名家もいれば、波多野家・六角家・三木家・細川家のように一度の交渉で諦めてくれる者もいた。同時に先のプレイで余計な1ターンを生じさせた安東家の討伐にも取り掛かり、裏切りの連続で低下した忠義を短期間に増加して整理が行き届かない外様大名の配下と共に、500の褒美をばら蒔いておく。
 
●1560年 冬
 石高817・兵力779の上杉家は空城の並ぶ敵領を西進中に石高155・兵力229の陶家と衝突、九州地方への航路を二ヶ所で確保した。一方の今川家は石高362・兵力549を持て余し気味で、近畿地方の本願寺家・松永家・畠山家・鈴木家を相手に手を焼いており、こちらからも同盟関係が悪化しない程度にお手伝いを派遣。また、九州地方には石高50前後の大友家・島津家の他に、龍造寺家・有馬家・松浦家・筑紫家・阿蘇家惟豊・阿蘇家惟前が小規模ながら健在で、彼らの存在が記録更新の障壁とならないように祈る。
 
●1561年 春〜夏
 畠山家と大友家は上杉家の、旧陶家と島津家は今川家の傘下へ。紀伊国を統一寸前の今川家は次の標的に、赤い旗が唯一はためく石山本願寺を選ぶだろう。本願寺家の本拠地は恐ろしいことに無傷を保っており、兵糧攻めでは最低1年は落城しない計算となる。その間に大和国から伊勢国に繋がる街道を抑えれば近畿地方の狭い範囲に今川家の全軍団を押し込める為、兵力356の突撃で同盟決裂──したのだが完全に見破られており、今川軍の兵力465から反撃を受けて逆に押し戻されてしまった。
 
●1561年 秋〜冬
 軍備・政略フェイズの順番が理想の今川家→上杉家となり、二条城(山城)に配置の武将3・兵力120には武将8・兵力217を、多聞山城(大和)に配置の武将10・兵力356には武将21・兵力465を正攻法でぶつけて、自軍の被害は省みずに全滅を達成する。今川家から2人の武将が寝返り、阿蘇家惟前と松浦家の自主降伏もあったので盾役を務める武将には困らなかったが、双方の戦場で大将が今川義元ではなく敵軍の士気が高かったのも幸いだった。その後、堺城(和泉)で稲葉一鉄が今川家より謀反、上杉家に降ったのが決定打。これで今川家は先の合戦に参加しなかった武将9・兵力97も紀伊国から出られなくなり、滅亡までの時間はかなり早まった。尚、有馬家は上杉家の城を奪おうとしたところを引っ捕らえ、筑紫家は今川家の軍門に下っている。
 
●1562年 春
 残るは今川領をそっくり受け継いだ武将7・兵力83の島津家、だけではない。石山本願寺の威光に守られた本願寺家もいれば、家督相続を経て誰にも媚びずに生き抜いてきた阿蘇家惟将もいる。特に後者の見事な生存能力は立派とも言えるが、遂に島津家が首根っ子を押さえたようだ。
 
●1562年 夏
 石山本願寺を落城させ、隈本城(肥後)包囲中の島津家を全滅。阿蘇惟将の討ち死にで当主となった甲斐宗運は上杉家に服属しており、攻城戦に移る前に天下人は確定した。
 
■2回目あとがき
 
 1回目と同じ大名では芸が無いと、2回目は武田家で挑戦。しかし、自分の都合には恵まれても全体の展開には尽く見放されて、10回程やり直しても記録を更新出来ずに困ってしまいました。そこで仕方無く上杉家で再度試すと、初回に出た結果がお読み頂いたものになります。地勢に有利な上杉家と人材に秀でた武田家で、最短クリアの境遇に大差があるとは思えませんが。
 
 
 
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