■関ヶ原 毛利家リプレイ
 
 大名:D 戦力:B 配下:B 地利:C 難易度:中級
 
●戦力
・石高140 兵力163 所持金 ─
 
 西軍総大将の座に相応しい見事な数値で、上杉家を僅差で上回って日本最大手の外様大名。初手謀反では石高の半減で大幅な規模縮小を強いられるものの、それでも全外様大名で上位に留まれる。事前が良過ぎて、事後が悪く見えるだけだ。
 
●武将
・毛利輝元  軍事 4 政治12 魅力14 士気 8 忠義 ー
 安国寺恵瓊 軍事 2 政治12 魅力 7 士気 ー 忠義10
 繁沢元氏  軍事 8 政治10 魅力 8 士気 ー 忠義16
・毛利秀元  軍事12 政治 4 魅力 8 士気19 忠義19
・益田元祥  軍事10 政治16 魅力12 士気12 忠義12
・熊谷元直  軍事 4 政治13 魅力 8 士気14 忠義14
・堅田元慶  軍事 8 政治 4 魅力11 士気19 忠義19
・佐世元嘉  軍事 3 政治 6 魅力 5 士気20 忠義20
・村上武吉  軍事10 政治 2 魅力 7 士気13 忠義13
・吉川広家  軍事14 政治14 魅力10 士気17 忠義17
 
 毛利家の誉れ高き名将たちはどこへやらの面子だとしても、10人の大所帯での開幕は武将確保が急務の本シナリオでは大助かりで、能力に関わらず全員を愛でてやりたい。高い官位の作用か、この中庸な大名でも大半の配下は忠義が安定する、当家特有の謎な加護が健在なのも長所だ。尚、安国寺恵瓊はすぐに出奔で歴史から失踪するが、捨て駒としては有効。
 
●外交
 初手謀反後、西軍と無理にでも同盟して西日本に平和が訪れたら降伏即謀反の手順も考えられる反面、時間と豪運が必須な割に見返りが少ない。然らば、ここから今から独立勢力として振る舞おう。
 
 
 以下、リロードと開幕最善手追求を禁止で進行。自分で難易度を本シナリオでは数少ない中級と易しめに判定しており、当然の縛りである。自縄自縛か。
 
 
■1600年 春
 
 初期位置の草津城(安芸)で謀反。郡山城(安芸)・高松城(美作)を同時に接収し、当家は石高60・兵力121から天下統一を始動した。東軍の城が絶妙に配置された影響で、九州地方の低士気かつ低忠義な西軍勢を中央から完全に分断しており、古法に照らせば西進が明らかに最適解だ。しかし、海岸線では資金力で力押しされて防戦一方になってしまったり、水軍戦の飛ばせない演出にうんざりだったり、そのせいで先攻めすら躊躇したりと、本作の現実的な問題を無視出来ない。一先ずは勝ち易きに勝つを念頭に、慎重な瀬踏みを行おう。
 
 郡山城に全軍団を集結後、寡兵の月山富田城(出雲)と無人の小石見城(石見)に分かれて侵攻。小石見城は西軍領との接点なので控えめに攻めたら、月山富田城からの脱出者の武将2・兵力14に待ち伏せされてしまった。とは言え、武将1・兵力24では野戦で安泰だし、城レベル8には力攻めで即落城させておく。毛利勝信、切腹。毛利勝永(軍14政5魅5)、降伏。
 1ターン目から忙しないことに、大迷惑な水軍戦が勃発。東軍の水軍力48に対し、当家は謀反のおまけで付いてきた30で抵抗も、まるで歯が立たずに草津城は囲まれた。更には、高松城にも西軍の魔の手が伸びてきて、前途多難な開幕である。
 
■1600年 夏〜秋
 
 小石見城からは撤収し、休戦を無言で持ち掛ける。月山富田城も包囲を解いて、米子城(出雲)の東軍が共闘してくれないか様子見。草津城の武将2・兵力29と高松城の武将2・兵力34を全滅させ、未来の芽を早い内に摘んでおいた。
 
■1600年 冬〜1601年 冬
 
安国寺恵瓊が、毛利輝元の元を去りました。
 
 慰留していないので是非も無し。共闘作戦は失敗も月山富田城を、無人で柔い津山城(美作)を奪取。夏に先手が取れたのを契機に、草津城で両軍と睨み合っていた本隊を月山富田城に移動させて休戦の成立に賭ければ、要望通りに両軍は別の戦地へ赴いてくれた。
 無人のはずの米子城には西軍の武将2・兵力42が先に乗り込んでおり、これこそ月山富田城で東軍と行いたかった形で、満足気に退却してすぐに徴兵→侵攻すれば西軍は退却し、横取り成功となった。その報復か、休戦協定を無視した西軍に草津城と小石見城が囲まれ、後者は陥落。速攻で取り返したい焦心を弄ぶかのように、こんな時に限って山陰地方に珍しい大雪が。
 
■1602年 春
 
 小石見城の喪失でどうなるやらと心配するも、大名直轄領は維持されて一安心。草津城を囲むは武将8・兵力118と初めての手強い相手だが、敵大将は士気の著しく低い小早川秀秋で、お帰り頂くのは簡単だった。順番に恵まれ、米子城を守りつつ小石見城と岡山城(美作)の空城攻めも行い、原状回復は近い。ちなみに、小早川秀秋及び名前を連ねる鍋島直茂は忠義が1まで下がっており、当家に幸運が舞い込むかも。
 
■1602年 夏〜冬
 
小早川秀秋が謀反を起こし挙兵しました。
 
小早川秀秋が徳川家康の軍門に下りました。

 
 両軍からの圧力が小さく、当家から喧嘩を仕掛けて亀尾城(長門)の武将2・兵力30を完封した矢先、勝山城(長門)での出来事。兼ねてより異心が見え見えで驚きには至らず、むしろ西軍の大軍が押し寄せても小早川秀秋の士気を利用出来ないので、当家に有益なのか不明で不安だ。とりあえずは大勢に影響は認められず、小石見城と亀尾城を落とし、小早川軍が陣取る勝山城を急襲し、中国地方平定に着々と近付いてはいる。他に、熊谷直盛(軍13政3魅6)が兵力1で寝返ってきた。
 
■1603年 春
 
豊前国の農民が一揆を起しました。
 
 当面は不可能に思われた九州上陸が一気に近付く朗報で、門司城(豊前)の農民が元気な内に海路を繋げねば。幸いにも、小早川軍は南の中津城(豊前)を包囲中だし、西側の岩屋城(筑前)は孤立した東軍領で、手なりで一番乗り可能な情勢と周辺を分析している内に、勝山城は落城させた。
 尚、現況を整理すれば――出雲国の守備は両軍の因幡国を巡る小規模な攻防が続いており容易で、四国地方とは休戦が成立し続けて、美作国と長門国の統一まではあと一歩。独立時の倍となる、石高130・兵力193に達した。西軍と東軍は兵力1000を行ったり来たりで、各地で実力伯仲なのだろう。
 
■1603年 夏〜秋
 
 水軍力が皆無な相手でも必勝したいなら当方は31が必要なのは、金銭不足の身だし徹底しなくても構わないだろう。8に12を足して20とし、いざ対岸へ。先制攻撃でぺちと当たり、百姓一揆鎮圧かつ九州上陸まで一直線。勢いは止まらずに中津城と岩屋城も包囲して、九州地方の開拓を急ぎたい。
 
■1603年 冬
 
 いつの間にか西軍の兵力700に対し、東軍の兵力1100と良からぬ兆候が。東軍が膨張して否応無しに浸食されるのは御免だから、前言撤回で近畿地方で東軍との接点を作っておきたくも、西軍を叩かねば無理と言う板挟み。今ターンも草津城にまたまたお出ましの武将2・兵力29を全滅させ、西軍の弱体化に一役買ってしまった。尚、渡辺了(軍15政6魅6)が潔く降伏してきたので、快く出迎える。
 
■1604年 春〜冬
 
 西軍が後手番にも拘らず、当家に対して軍団を一切割り当てなかったのは、中央で苦戦中の証左かもしれないので一概には喜べない。それでも播磨国・因幡国侵入と九州開拓を無血で平行可能なのは、徴兵が追い付いていない当家にとって歓迎ではあり、戦力増強競争で東軍に食らい付ければ御の字だ。
 
■1605年 春
 
 開始から5年経過した毛利家及び各地の情勢。
 
●戦力
・石高253 兵力383 所持金7990
 
 順調に自領を確定させてゆき、敵からの反撃も受け流せて、何よりも百姓一揆が絶好の場所で起きてくれたのが成功要因。実際のところ、十数回も挑戦して5年経過で勝負形に持ち込めているのはまだ2回目でしかなく、本機会を心から逃したくない。
 
●武将
・毛利輝元 知行22 兵数40 忠義 ─
・毛利秀元 知行21 兵数40 忠義25
 繁沢元氏 知行21 兵数15 忠義15
・益田元祥 知行21 兵数40 忠義25
 稲葉正成 知行 0 兵数 1 忠義24
・熊谷元直 知行21 兵数25 忠義20
・堅田元慶 知行21 兵数40 忠義25
・佐世元嘉 知行21 兵数28 忠義25
・村上武吉 知行21 兵数40 忠義17
・吉川広家 知行21 兵数40 忠義25
・毛利勝永 知行21 兵数40 忠義25
・渡辺了  知行21 兵数27 忠義23
 熊谷直盛 知行21 兵数 7 忠義16
 
 近畿地方と九州地方を好き放題に荒らしている割には、大名直轄領に余裕が出ないのは気掛かりで、西日本からの開始だと奥州地方や関東地方とは勝手が違うのを再認識した。ちなみに、冒頭で記した通りに忠義は安定で、褒美代を計上しなくて構わないのは財政と手間の両面で嬉しい。
 
●大名家
・徳川家 石高1108 兵力1521 敵対:豊臣 毛利
・豊臣家 石高 722 兵力 963 敵対:徳川 毛利
 
 豊臣家が少しは盛り返しかと思いきや、徳川家が東日本統一を発端に成長期に入ってしまった。激戦地は美濃国で、当家が豊臣家と連動して徳川家に影響力を持つ位置関係になるには、まだ時間が必要でもどかしい。
 
 
 西端は豊後国の入り口で、先を急いでも城当たりの石高が美味しくない地帯になってしまう為、深入りせずに東端の攻勢を優先しよう。
 
■1605年 夏〜冬
 
 播磨国に大軍を集結させても鈍い反応の西軍を見て、滅亡させて立場を受け継いだ方が東軍を脅かせそうだと、大言壮語を吐く。とは言え、対東軍の本命が当家に移りつつあるのは事実で、例えば三木城(播磨)の落城で明石全登(軍15政5魅9)が降伏して配下武将が量だけでなく質も上がってきたし、最前線は福知山城(丹波)・宮津城(丹後)まで到着。
 
■1606年 春
 
 藪から棒に突き進むより、西軍の堅城があれば東軍を敢えて誘い込んだ方が、現在の圧倒的戦力差では適切か。今後の鍵を握りそうなのは越前国に一本の街道だけで接続する田辺城(丹後)で、大雪による退路遮断の布石に早めに抑えておくべき。また、大将集中攻撃が成功し易い地形の尼崎城(摂津)にも、東軍より先着しておきたい。
 
■1606年 夏〜秋
 
 不可欠な接戦なのか単なる玉砕なのか、西軍の擁する6つの大名家が滅亡し、武将は35人から半減して有効な抵抗はもう困難だろう。数年前は勢力拮抗していただけに、もう少し粘ってくれてもと惜しんだ。
 
■1606年 秋〜冬
 
 要衝の田辺城と尼崎城を確保し、これより東には領地拡大の価値は無い。また、西軍の亀山城(丹波)を包囲中の東軍に襲い掛かり、武将1・兵力29を全滅。僅かな戦果でも東軍への実質的な初太刀となり、筆者の意気も高まると思わせて、冬に熊谷直盛が寿命とは間が悪い。
 
■1607年 春〜秋
 
 石高400・兵力450の毛利家と、石高1300・兵力1500の東軍の一騎打ちが開戦。一応、石高380・兵力400と西軍もまだ再起の可能性は途切れておらず、どうにか味方してくれればありがたい。
 高槻城(摂津)に武将32・兵力730が大挙して到来し、尼崎城の当家を木っ端微塵にしたい衝動がひしひしと。ただし、先攻めか大将集中攻撃で跳ね返せば良いので、当方の危機感は小さい。結局は両方の同時成功と言う大手柄を挙げて、東軍に少なくない実損を与えられた。馬に乗った徳川家康など、我々には格好の獲物だ。ただ、潰走後の再侵攻においては兵力1の彼が前に出て来てくれない為、戦法「追い討ち」は諦めて退却している。他に、合計で武将4・兵力103の全滅に成功。
 
・石田三成が豊臣家の家督を相続します。
 
■1607年 冬〜1608年 春
 
 厳しい連戦に備えて、石高150まで拡大した大名直轄領を配下全員に分配し、徴兵速度を増しておく。また、当家の尼崎城と東軍の高槻城に連なる大坂城(摂津)に目を移せば、西軍が武将9・兵力284の全戦力を入城させて城レベルも82と、石田三成の指揮下で反転攻勢の準備万端に見えて頼もしそう。しかし、大和国・和泉国から敗走の果ての寄せ集めなのは言うまでもなく、西軍は一手詰めの危機だ。新当主の手腕や如何に。
 尼崎城の戦場は、平野をうねるように流れる淀川が天然の要害として防ぎ手の有利に働き、大名集中攻撃を成立し易いのは前述通りで、今度は先攻めを仕掛けずに兵力469を迎撃せんとした。しかし、敵大将が顔を出してくれそうにないわ、騎馬部隊への先制攻撃の為に前線を押し上げないといけないわで、早めに一旦は退いてから攻め返す。こんなこともあろうかと、城レベルは40まで上げているから実害は無い。二条城(山城)では武将2・兵力60を全滅させ、前田利常(軍11政15魅16)が降伏。
 
■1608年 夏
 
 高槻城に対陣するは武将35・兵力962で、二度の潰走を大軍へお見舞いしたのに初遭遇より増えていて、眩暈がした。今回も含め、あと何回の潰走で潰れてくれるのか定かでないし、これで敵全体の士気が下がり過ぎても今度は各個撃破の成立が遠のくし、二律背反で悩ましい。その各個撃破においては、武将1・兵力40を田辺城で仕留めている。
 
■1608年 秋〜冬
 
 昨年は敵軍に包囲されていて実行出来なかった、田辺城での退路遮断の機会が来訪。田辺城の普請・東軍の誘引・北陸地方への大雪・野戦での勝利の全条件を満たし、武将9・兵力184を討死帳に記録した。伝家の宝刀にしては爆発力が小さいものの、書面には徳川家康と本田忠勝の名前が刻まれており、東軍の人的損害は相当な大きさのはずだ。主戦場においては、尼崎城から高槻城への逆襲にも成功している。
 
・徳川秀忠が徳川家の家督を相続します。
 
■1609年 春〜夏
 
 東軍と仲良く刃を交わしている内、その存在を忘れていた西軍の武将9・兵力300が短兵急に出陣し、当家の武将6・兵力193に横槍を入れてきやがり、本戦に負ければ高槻城を包囲中の数名が孤立してしまう。いつもの手順で無事に勝ち名乗りを上げられたとは言え、完全な油断による窮地に冷や汗だった。汗を拭く間も無く、亀山城にて武将6・兵力139を、田辺城にて武将2・兵力46を地道に全滅。
 石田三成への天罰か、堺城(摂津)の東軍がCPU同士特有の「兵糧攻め→退却」を実施中のようで、立派な高閣を誇った大坂城が急速に縮小している。つまり、西軍は少し前から虫の息で、あれが最後の執念の強行突破だった訳か。
 
■1609年 秋〜冬
 
 西軍の滅亡により、四国半分と九州全土を遺領配分されたが早いか、尼崎城にて徳川秀忠を討ち取った。それでも冬の時点でのお互いの戦力は、毛利家が石高593・兵力432に対して東軍が石高1578・兵力1006で、力関係に変わりはない。主戦場での大将集中攻撃と局所での各個撃破の両輪を、まだまだ頑張らねば。
 
・石田家が滅亡しました。
・武田信吉が徳川家の家督を相続します。
 
■1610年 春〜秋
 
 日本の1/4を治めても定期収入は5000に留まり、連戦連勝なのに徴兵がままならなくなってきたが、東軍から四国地方に食べて下さいと言わんばかりの餌が巻かれた為、一つ残らず食い尽くす程度の余力はあり。また、こっそりと奪われてしまった田辺城及び福知山城を奪い返し、再度の退路遮断を画策。尼崎の戦いでの大将集中攻撃は間断無く勝利するも決定打には遠い為、可能な限りの武将と兵力を嗾けたい。注文の結果、武将29・兵力534が挑発に乗ってくれ、あとは大雪が北陸地方に降って、山陰地方に降らないように祈る。
 
■1610年 冬〜1611年 春
 
北陸地方が大雪です。
 
 山陰地方は当然としても、降雪地帯の甲信地方にも、豪雪地帯の奥州地方にも降らなかったのに、北陸地方だけに降った奇跡。舞鶴は山脈で狭隘な地形が正面対決を促し、敵陣形も鋒矢の陣で大将集中攻撃が非現実的と一筋縄ではいかなくて厄介も、今まで尼崎で幾度と潰走させた効果で敵士気が24と低いのを突き、半数の兵力でも勝利は交戦前から確定だった。先に、別動隊の武将3・兵力88も全滅させており、勝負あり。
 
・京極高次が武田家の家督を相続します。
 
■1611年 夏
 
 天下統一を間近に控えた毛利家の状況。
 
●戦力
・石高578 兵力507 所持金5788
 
 敢えて欲張らずに両要衝で領地拡大を中断した判断の正しさを、この堅調な数字が物語ってくれている。東軍の激しい波状攻撃に耐えられたのは、戦力と戦術と何よりも戦略のお陰だ。
 
●武将
・毛利輝元  知行133 兵数40 忠義 ─
・毛利秀元  知行 30 兵数40 忠義24
 繁沢元氏  知行 30 兵数40 忠義19
 毛利秀就  知行 30 兵数19 忠義23
・益田元祥  知行 30 兵数39 忠義24
・熊谷元直  知行 30 兵数36 忠義21
・堅田元慶  知行 30 兵数40 忠義25
・佐世元嘉  知行 30 兵数40 忠義25
・村上武吉  知行 30 兵数40 忠義25
・吉川広家  知行 30 兵数40 忠義25
・毛利勝永  知行 30 兵数40 忠義25
・渡辺了   知行 30 兵数40 忠義23
・明石全登  知行 30 兵数24 忠義23
・前田利常  知行 30 兵数26 忠義17
・鮭延秀綱  知行 30 兵数 1 忠義19
 宇喜多詮家 知行 24 兵数 1 忠義17
 水野勝俊  知行  0 兵数 1 忠義16
 
 かの安国寺恵瓊以外は、初期配下の全員が生存。軍事の平均値は低い反面、敵大将さえ倒せば良い局面が大半で気になりにくく、戦下手なりによく奮闘してくれた。そんな感謝の胸中の癖して知行が控えめなのは、東軍の侵略を止められなかった時の保険である。あと、最後まで武将仕官が起きずに終わる初めての経験になりそうだったところ、1611年の春に水野勝俊が滑り込み。下記の不手際が無ければ珍しい記録を達成出来たのに。
 
 
 裏話をすれば、実は1610年の冬に天下統一は可能だったが、急転直下の展開により本纏めを保存していなかった為、敢えて引き延ばしている。
 
・京極家が滅亡しました。
 
 
1611年 夏
 
毛利輝元は天下人となった。
 
 
■あとがき
 
 既に吐露している通り、十数回目の挑戦で何とかでした。自己判定で難易度上級の前田家利長よりは簡単との見込みは外れ、苦労の度合いは毛利家の方が重たいです。それは本作の数少ない問題点――水軍戦を忌避して緩手を指してしまうからで、例え演出を我慢しても元より海上では勝負にならないし、西日本の大名を選んでの天下統一には現実的な覚悟が要りますね。
 初めて勝負形に持ち込めた時、今回のように退路遮断で東軍に大損害を与えるも、既に手遅れで投了まで追いやられてしまったのは、九州地方の厚い壁が響いて継戦能力が足りなかったから。今回は的確な場所で、まるで当家を対岸へ手招きするかのように小早川秀秋の謀反と百姓の一揆が連発し、中盤からの大将集中攻撃による連戦連勝の下支えとなってくれました。それを踏まえれば、開幕最善手追求ではなくても幸運任せなノーリロードなのを否定出来ず、ありがたいやら悔しいやらの身勝手な心境です。
 
 
 
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